森の木陰でひと休み

クラシック音楽以外の いろんな話題でちょっとひと休みしましょう

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森のこかげ 2 シベリウスのある部屋
  演奏会の思い出

1・思い出の模型 2・犬に関する検証  3・東京オリンピック  4・命のビザ・杉原千畝物語  5・吹奏楽の旅  6・騒音で訴えられそうになりました 7・ロッテが日本一  8・昔の映画はよかった?  9・心の歌・日本の歌  10・懐かしのTV主題歌  11・クイズ〜いくつ分かりますか?  12・刺激的な台湾の夜市  13・映画と音楽  14・死ぬかと思った  15冬季オリンピック  16・どうしたジャパン!  17・世界ウルルン滞在記  18・やったね!金メダル! 19・団塊の世代改め「感動の世代」  20・サラリーマン川柳 21・女学生  22・懐かしのフォークソング  23・隠し砦の三悪人  24・第一印象 25・台湾は昆虫天国  26・WBC世界一おめでとう  27・MOTTAINAIが地球を救う

 28・携帯と手紙  29・みかんの花咲く丘  30・ガラス細工のような平和  31・PTSD  32・アジアの歌姫  33・テレサ・テンその2  34・お母さんの歌  35・小説と映画  36・お母さんの歌・2  37・メタボリック・シンドローム  38・現代美術?  39・台湾の卒業式  40・台湾の思い出  41・台湾の思い出その2  42・台湾のCDショップ事情 43・台湾で最も有名な曲 44・台湾で印象に残った事  45・侯孝賢作品のロケ地を行く  46・ロケ地を訪ねる〜冬冬の夏休み  47・ついに暴発か 48・異常気象? 49・NHK朝ドラ・純情きらり  50・戦場のピアニスト  51・太陽系惑星、3個増?  52・さようなら冥王星!  53・パソコンの引越し  54・大変!モーツァルトの故国の名前が変わる!?  55・なぜ少ない?大阪の振り込めサギ被害  56・06年サラーリーマン川柳

ポールモーリア、レイモンルフェーブルの音楽をBGMにしてお読みください


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1・思い出の模型「戦艦大和」

「戦艦大和をつくる」という模型入りの雑誌のコマーシャルが連日繰り広げられていましたね。このコマーシャルをを見て突然、模型つくりに明け暮れていた子供時代を思い出しました。

子供の頃、戦艦や戦闘機の模型をつくるのが好きで父に小遣いをせびって、全長40センチの大和の模型を買ってもらったのを思い出しました。

父は学徒出陣で海軍に従軍したので、とにかく軍艦に関してはとても詳しく、私たち男の子の尊敬の的でした。音楽嫌いの父が、ラジオから流れる軍艦マーチだけは懐かしく聴いていたのを思い出します。

戦艦では長門、扶桑、山城、伊勢、日向など、重巡では高雄、利根、那智なども作ったように思います。(記憶が定かでないので間違っているかも知れません)

中学生になり高校と受験勉強に明け暮れ、いつしか模型つくりは忘れていましたが、テレビで見る立派な「大和」の模型を見て、思わず昔の模型大好き少年が頭をもたげてきたのです。

作ってみようかな、と思い書店で創刊号を手にとって見ましたが、完成すると全長120センチにもなる堂々たる大きさで圧倒されました。つい買おうかと思いましたが毎週発行の全巻そろえると、全部で何巻になるんだろうか?と疑問が出てきました。

そこでホームページで調べたところ、全巻は90巻になるとのことです。金額は10万6千500円です。一巻1190円だから90回のローンのようなものですが、「まてよこんなのを作る暇があるかな?」と基本的な疑問が頭をよぎりました。

最近は本一冊も読めないほど、忙しくて時間の余裕が無いのにこんな大作を作る時間は到底ないなあ・・・・という結論が出ました。
とにかくこれは、仕事をリタイヤして暇が出来たらゆっくり作ろう・・・と今は思いとどまりました。(その頃はもう気が無いかも知れないけど・・・)

日本海軍の象徴でもあった巨大戦艦の勇姿とその悲劇的な最後を思うと複雑な想いがしますが、そういうことはさておいてもこの機能美にあふれた船体を眺めていると時間を忘れるほどです。

本当に惚れ惚れする形の戦艦ですね。(男この人ならこの気持ち、きっとわかると思います。)

タミヤ模型でよく軍艦や飛行機を作りました


2・犬に関する大検証

先日「トリビアの泉」というTV番組をみて大笑いをしました。
大検証!犬と散歩中に飼い主が突然倒れたら、果たして犬は助けを呼びに行くだろうか?」という検証でした。

100人の飼い主が散歩中にうめき声をあげて、犬の名を叫んで倒れるという演技をして、そのまま15分ほど横たわります。その間に犬が誰かに助けを求めるのか?それとも他の行動を起こすのか?

・・・というデータを取る、犬好きにとってはとても興味深い検証でした。
飼い主にとっては家族同然に可愛がっているペットです。ご主人の帰宅した姿を見てあれだけ、尻尾を振って身体全体で喜びを表す可愛い犬のことです。少なくとも10匹くらいは、ご主人の危機を感じて、家に帰って家族に知らせるはずです。
皆さんもそう思うでしょ?

ところが・・・・結論を言うとただの一匹も、ご主人を助けようとはしませんでした。
中には心配してご主人の横たわっている周りをウロウロする犬もいましたがやがては、飽きてよそに行ってしまいそのまま帰らないという犬もいたり、自宅に帰り餌を食べたり、水を飲む犬が続出です。

ひどいのは横たわっているご主人の背中に小便を引っ掛ける「」もいて、見ていて腹が立つやら可笑しいやらで、なんとなく複雑な気持ちでした。

世の愛犬家の皆さんも同じ想いで見ていたでしょうね。
「フランダースの犬」のパトラッシュのような優しい犬はどこにいるんでしょうか?
所詮、動物ですね。人間のことをただ餌をくれるだけの便利な生き物だと思っているんでしょう。人間の犬への思い込みが強すぎて、自分がこれほど愛しているんだから犬もそれを感じて、「恩返し」をしてくれるんだというはかない幻想でしたね。

最後に介助犬が助けを呼ぶ姿を紹介していましたが、あれは選ばれた犬が厳しい訓練を経て、条件反射的に助けを呼ぶだけであって自分の判断では何も出来ないことが判りました。

愛犬家いわく、「あれは飼い主の演技を見破っているんだ・・・」と言いますが、たとえそうであっても15分も横たわっているのなら、少しくらいは心配してそばにいてもいいのでは・・・と思わずにはおれませんでした。

殆んどの犬が飼い主のことを忘れて走り回っていました。飼い主のことを思い出すのは多分、腹が減った時ではないでしょうか。・・・・・・・・・・
まあ、こんな馬鹿な犬だからこそ可愛いんですね。
自分の意思で物事を判断したり考えたり出来るんだったら、そのほうがよっぽど恐ろしくなります。   05・10-1 

3・東京オリンピックの思い出

10月10日。この日は私にとっては忘れられない日です。
日本ではじめて開催されたオリンピックの記念すべき開会式の日だからです。最も多感な子供時代に見た、日本の晴れ姿「東京オリンピック」は心身ともに大きな影響を与えてくれました。
1940年戦争の為中止になった東京オリンピックが敗戦という大きな痛手を負って、再びまた64年に開催されるなんて誰が予想したでしょうか?

悲惨な状況を目の当たりにして過ごしてきた、私たちの親の世代はそれこそ待ち焦がれていた日本の誇らしい晴れ姿でもあったのでしょう。

その熱気は町を歩いていてもテレビを見ていても、痛いほど感じました。

大げさではなく当時発展途上国から先進国への道を歩んでいた日本の記念すべき一大イベントでした。

その国をあげての熱気は、私たち戦争を知らない世代の子供たちにも伝わってきました。学校でも家庭でもどこでも「オリンピック」の話題で持ちきりでした。

特に印象に残っているのは、選手宣誓をした小野喬選手が痛め止めの注射を打って鉄棒で優勝した姿や、東京大会初の金メダルをとった重量挙げの三宅選手の勇姿は忘れることが出来ません。

体操個人総合優勝の遠藤幸雄、跳馬の山下、吊り輪の早田選手なども印象に残っています。その他陸上の、依田郁子、水泳の木原美智子選手などメダルが期待されていたのに果たせなく悔し涙を流していた姿も思い出します。

そして、最も感動したのは「東洋の魔女」たちが宿敵ソビエトをくだした女子バレーボールの試合ではなかったでしょうか。当時国民の90パーセント以上の人がテレビで観戦していたというくらいの大事件でした。

今でもその時の状況を思い出して、涙が出るくらいです。

表彰式での涙の国旗掲揚と君が代の演奏は、これほど日本人に生まれてよかったと思ったことはないくらいの感動でした。テレビの画面いっぱいに写った日の丸の誇らしさは一生忘れないでしょう。

白黒の画面でしたが、心の中では白地に赤い日の丸が翻っていました。
子供の私でもこれほど感激したのです。つらい戦争を経験してきた先輩たちの感激は想像できないほど大きかったことでしょう。
まさに「東京オリンピック」はいまだに人々の心の中に深く残っていることでしょう。

*画像は日本の”スーザ”古関裕而 作曲の「東京オリンピックマーチ」です

後日談:私はこのときの感激が忘れられず、後に高校生の時、音楽部に入る
のをやめて、器械体操部に入ってしまいました。
ところが見るのとするのは大違いで当時流行した難易度Cの上を行く超難易
度技の「ウルトラC」に挑戦すべく日夜練習に励みましたが、難易度Bも難しい
ありさまでした。
鉄棒から落下したり、平行棒で股間の急所を強打したり散々な目にあいました。
幸い骨折はなかったですが、部員の何人かは骨折で入院しています。
このときの教訓は、世の中には幾ら努力しても出来ないものはある、という
事を身をもって思い知りました。
   05・10・10

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4・命のビザ・杉原千畝物

テレビで「命のビザ・杉原千畝物語」を見ました。感動のあまり涙がとめどなく流れました。
戦争の加害者として世界中から(特にアジア諸国から)鬼か蛇のように忌み嫌われる日本人の中にも、外国から尊敬される偉人がいたという事実だけでも、誇らしい気持ちでいっぱいになりました。

その反面、当時、人道的配慮からユダヤ難民を6000人も助けたのに、戦後日本の外務省は命令違反をしたという理由で解雇したのを知って非常に憤りを覚えました。

また戦後、彼によって助けられたユダヤ人たちが、消息を外務省に尋ねても全く無視したということでしたがなぜそこまで無視し続けたのでしょうか。

後にイスラエル政府から国民栄誉賞を授与されたのですが、日本の外務省が彼の名誉を回復させたのはつい最近の2000年になってからというから驚きです。人の情けというものを一切排除し続けてきた外務省の態度に怒りを覚えました。今でも世界でもっとも難民を受け入れない国として有名な日本は
あの当時と全く変わっていないということでしょうね。

番組の最後に外務省の建物の一角にある、彼の偉業をたたえたプレートが大写しになっていましたが、表面だけをつくろっているようでとても後味の悪い結末でした。
諸外国が讃えるから、日本も仕方なく名誉を挽回させたという訳でしょうか。私にはそう思えて仕方ありません。

これは私見ですが、戦後いち早く彼の人道的行為を讃えて、日本の外交の表舞台で活躍させるべきではなかったのではないでしょうか?こういう稀有な人材を登用しなかったのは日本外交にとって大きな損失だったと思います

彼のような人が外務省にいるということ自体、日本が軍国主義から真の民主主義に変わったということを諸外国に知らしめる絶好のチャンスではなかったでしょうか?・・・・・

とにかく、もし自分がこんな立場だったら、果たして同じ行動が出来ただろうか?・・・と深く考えさせられたドラマでした。
あの悲惨な戦争のさなかにも、こんな高潔な精神を持った素晴らしい日本人が存在したということを子や孫まで、語り継いでゆかなければならないと強く思いました。    05・10・11

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5・テレビ番組「吹奏楽の旅」を見て

TV番組の「所ジョージの笑ってこらえて」の中の吹奏楽の旅のコーナーは面白いですね。
先日は特集をしていたので2時間たっぷり学生時代に戻って楽しみました。
音楽の素人の高校生たちが熱心な顧問の先生やパートリーダーたちの指導と同級生たちとの協力で合奏の力を高めてゆく姿は、なんと純粋で美しいものでしょうか。
そしてコンクールで勝っても負けても涙にくれる学生たちの姿は、見ているこちらも思わず目頭が熱くなるほどでした。

私の場合は吹奏楽部ではなかったので、コンクールはなかったのですがやはり演奏会に向けて必死に練習した思い出が甦ってきました。
東京の普門館で開催される全国大会はまるで、野球の甲子園のような熱い戦いが繰り広げられます。見ていても手に汗を握る緊迫感がありますね。

普門館での実況録音CDを聴きましたが、どの学校も「これが中学生?高校生?」と信じられないくらいの演奏技術の高さに圧倒されます。たった2〜3年でこれほどまで上達するとは・・・本当に驚くばかりです。

ところが、吹奏楽の戦いもやはり名門校というのが出来上がり毎年、金賞を勝ち取る学校は決まってくるようですね。上位入賞校には、いい部員が集まり、いい先輩がいて指導するので毎年上位入賞するといういい流れになってきているようです。

私の母校でも、ある顧問の先生の在学中は金賞常連校でしたが、その先生が転勤になったとたん腕が落ちて、全く入賞しませんでした。
やはり、いい指導者がいてはじめていい結果が出るのでしょうね。大阪の淀川工業高校や千葉の習志野高等学校などの優秀校もいい指導者に恵まれているからここまでうまくなったのでしょうか。

今後これら入賞常連校の課題は、指導者が代わる時でしょうね。

それにしても、ひとつのものにみんなが力をあわせて作り上げてゆく、そして入賞を目指して全力で大会に臨む・・・・甲子園での野球の試合にも勝る緊迫感と重圧があり、その結果金賞を手にするというのは何ものにも替えがたい達成感があるのでしょうね。

あれほどの涙にくれる学生の姿を見ていて・・・自分もあんな感動を味わいたかったなあ・・・とちょっぴり羨ましく思いました。  05・10・21

6・騒音で訴えられそうになりました

世の中には、信じられないお話があるもんですね・・・・・。
最近まで私の家は夫婦共稼ぎで、夜は10時頃に家に帰っていました。
ある日帰宅したら、マンションの扉のところにメモが差し込んであるではありませんか。
見ると「毎晩、ラジオの騒音で迷惑している。すぐにやめろ!さもなければ訴える!!」という内容でした。どこの誰とも書いていません。そこでお向かいさんに尋ねましたが、留守だったので気になるけどそのまま放っておきました。

朝から夜までは留守、そんな騒音を出すはずは無いので「嫌がらせ」だろうと思ったからです。

ところが仕事が休みの日曜日の夜、くつろいでテレビを見ていると応接間にあるオーディオ・コンポが突然「大音響」で鳴り出したのです!心臓が止まるほどびっくりしました。

ステレオを見てみるとなんと、タイマーが夜9時から30分までセッティングしてあったのです。道理で抗議のメモがあったはずです。
それからは謎解きです。いったい誰がセットしたのか?まさか、幽霊の仕業かな・・・・・・・?
考えるば考えるほどわからなくなります。

妻に「最近誰かこなかった?」と聞いたら、「そういえば先週、妹が子供を連れて来た」というのです。 聞いたとたん謎が解けました。子供は幼稚園の男の子で、応接間のステレオで何か音楽を聞いていたということです。
何かの偶然で、タイマーをセッティングしてしまったのですね。

これで、この件は落着しましたが、もし知らないまま旅行にでも出ていればどれだけご近所に迷惑をかけてしまったことでしょうか。本当に訴えられたかもしれません。早速、ご近所を謝って回ったのは言うまでもありません。

世の中、騒音の為「殺人」も起こっている昨今、こんな信じられないことも起こります。皆様もくれぐれもお気をつけくださいね。

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7・ロッテ・マリーンズ日本一!

今年のプロ野球、日本シリーズはあっという間に終わってしまいましたね。
盛り上がらない試合続きで、終わってからもなんとなく虚しく心の中に秋風が吹いています。

ロッテ・マリーンズがパリーグでは2位だったのに、西武、ソフトバンクとプレーオフで勝ち上がり、その勢いで、セリーグでブッちぎりの優勝した阪神タイガースを、ぐうの音も出ないほど打ちのめして31年ぶりの日本一を勝ち取ったのです。

このことは、心から「おめでとう」と言いたいのですが、野球ファンとして非常に物足らない日本シリーズでした。
こんなにも力の差が出るものでしょうか?不思議に思いました。

やはり、巷で言われているように、2回のプレーオフを勝ち上がってきて、チーム状態の最高の時点で戦いが出来るロッテと、3週間も待たされて、戦いの気力も体も「なまってしまった」阪神では、試合にならなかったのかも知れません。

スポーツには「心」「技」「体」と3拍子揃わなくては、まともな動きが出来ないのは当たり前で、その点、阪神タイガースは「技」はともかく「心」と「体」がなまっていたのではないでしょうか?
まあ、とにかくせっかく楽しみにしていた、一年に一度の日本シリーズが阪神の不完全燃焼で終わってしまったことは残念でなりません。
来年は両リーグとも同じ制度のもと、同じ状態で正々堂々と戦って欲しいものですね。

両リーグのコミッショナーはよく話し合って、よい方法を決めて欲しいと心から思いました。
因みに、私はどちらの味方でもありません。野球ファンであるということだけです。手に汗を握るほどの白熱の戦いをしてくれればそれだけでいいのです。

このたびの日本シリーズでは3勝3敗までもつれて、出来れば最後はさよならヒットで劇的に決めて欲しかっただけです。   05・10・27

8・昔の映画はよかった?

最近映画を見ても感動することが少なくなりました。映像的にはびっくりする映画はあるのですが・・・・・内容がもう一つなのです。
友人や家族に聞いても、昔の映画より感動は少なくなったと言うことです。

なぜかな?と考えてみるとそれは、映画技術の進歩が原因じゃないかなと思うのです。すなわちCGなどの特殊効果映画が氾濫して、どんな映像でも作ることが出来るようになったのが原因ではないでしょうか?

これは、個人的な感想で、今の映画の方がいいと思う方もおられるでしょうが、私にとってはものすごくつまらなくなりました。

例えば、「ハリー・ポッター」シリーズを子供と一緒に見ましたが、どんな困難に出会っても、魔法で簡単に解決してゆくストーリーとCG技術でどんな映像も出来上がるといったもので、困難に陥った主人公が苦労して立ち向かい、最後には勝利を勝ち取るといった、ドキドキ、ハラハラ、手に汗を握るような場面がないので全く感動しませんでした。まるでテレビ・ゲームを映画で見ているようで本当につまらないものでした。

ボタンの操作一つでどんな怪物も倒してゆくテレビゲームそのものでした。

またアカデミー賞をとった「ロード・オブ・リング」も全編CGの連続で、映像的には驚きがあっても、内容で感動することはありません。
最近は、以前では考えられなかった、架空の衝撃の映像が可能になったので、ストーリーよりそのほうにお金と時間をかけるようになったので、その分、役者や脚本が疎かになってしまったのでしょうか?

ものすごく古い映画で申し訳ありませんが、チャップリンの「モダンタイムス」「独裁者」やイタリア映画の「自転車泥棒」「道(ジェルソミーナ)」「鉄道員」(左の写真)など、特殊効果の技術もカラーでもない貧しい映像ですが、いつ見ても感動して心に残る素晴らしい映画でした。

また映画音楽も素晴らしく、今でもこういう作品を集めたCDには必ず収録されています。わたしはこれらの映画音楽を聴いただけでも、映画の一場面を思い出して目頭が熱くなるほどです。

これら作品に共通するのは、いい映画を作ろうとする情熱と信念が全編にあふれていることです。お金も技術もないところを脚本と役者の名演技に支えられて立派な映画史上に残る名画が出来るのでしょう。


その他、黒澤作品、や小津作品なども大好きです。最近?の映画では「ショーシャンクの空の下で」「レインマン」「シザーハンズ」「霧の中を散歩」などの映画が心に残っています。

映画ファンの私にとっては、もうテレビゲームの実写版のような映画はいいから、心の底から感動できるいい作品をどんどん見てみたいと思うだけです。05・11・
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9・心の歌・日本の歌

深夜に仕事をしていると、つい「ながら族」になりますね。いつもはバロック音楽を聴いたりするのですが、今日はなぜか「演歌」を聴きたくなりました。学生時代、受験やテスト勉強をしていると、ラジオ放送が全て終わる深夜に、文化放送で「走れ歌謡曲」というトラックの運転手や夜起きている人向けに、演歌を放送していたの思い出しました。当時はただ眠気覚ましに聴いていたに過ぎず、演歌などは好きではありませんでした。

ところが、台湾で留学してその後数年働いていた時に、突然どうしょうもなく「演歌」が好きになったのです

当時は寂しくなるだろうと思って、クラシックのCD、テープなどをたくさん持っていったのですが、なぜか聴く気にならず無性に日本の歌や言葉や本が恋しくなるのでした。

また、食事でも苦労しました・・・・
留学とか海外赴任された方は、わかると思いますが、中華料理は大好きなのに、毎日あの脂っこい料理を食べていると3ヶ月くらいで、油の匂いを嗅いだだけで食欲が無くなりました。
そんな時は、パン食にしたりおかゆを作ったりしてしのいだものです。(あっそうそう、餅が良かったですね。あっさりしていて食べ易かったです。)

外国で生活する為の一番の、ネックは食生活の違いではないでしょうか?・・・・・あとは、言葉です。特に日本語がしゃべりたい、読みたいという欲求が日に日に大きくなりました。
言葉も食事も身体に入ってくるときに、違和感があるのです。ストレートに入ってきません。このときのストレスというのは、経験したことの無い人には理解できないでしょうね。

これが「ホームシック」というものでしょうか。
とにかく日本のものが何でも恋しくなりました。

そんな時、CD屋できれいな日本語の歌が聞こえて来て来ました。思わずその店に飛び込むと、テレサ・テンが日本の演歌を歌っているではありませんか。それもきれいな日本語で!

それからは「テレサ・テン」ばかり聴きました。森進一、都はるみなどの持ち歌も歌っていました。このときほど音楽がストレートに心に飛び込んで来たことはなかったです。「ああ、自分はやっぱり日本人なのだなあ・・・」と再確認したのです。

小説も日本書専門店で、値段が日本の倍もするのに、読んだことのない時代小説なども読みふけりました。

ブラジルなどへ移民した人が、国内の日本人よりもより日本の伝統を重んじるのを聞いた事がありますが、それが少しわかったような気がしました。外国に出て初めて「国」というものを意識するのですね。本当につくづく自分は骨の髄まで日本人なのだなあ・・・と思い知りました。

以前はクラシック一辺倒だったのに外国生活したおかげで、日本の小説、音楽(特に演歌)歴史などにも興味を持つ事になりました。
外国に出ると、良きにつけ悪しきにつけ「日本人」ということを意識して生活していかなくてはならないので、余計に日本人らしくなるのでしょうか。

それからというもの森昌子、八代亜紀、森進一、大月みやこなどの「ど・演歌」が大好きになりました。たった3分あまりの歌の中に、凝縮されたような人生の宿図を感じさせる演歌に思わず涙することもありました。

今は、テレサ・テンの歌う「津軽海峡冬景色」を聴いています。澄み切った哀調感あふれる歌声に心もとろけそうです。    
05・11・05       ページトップに戻る

10・懐かしのTV主題歌

想い出のテレビ番組の主題歌ばかりを集めた珍しいCDを見つけました。
それには60年代〜80年代の子供番組から時代劇の主題曲までいろいろ収録されていました。

水戸黄門とか、必殺仕事人、子連れ狼などの曲から鉄腕アトム、ムーミン、ゲゲゲの鬼太郎、巨人の星、など今でも有名な曲もありました。
このCDで、最も懐かしかったのは、子供の頃テレビで見たテレビ映画「少年ジェット」という番組のテーマソングでした。月光仮面や七色仮面などのヒーローものが男の子の人気を独占する前のテレビ映画だったと思います。

正義の味方の「少年ジェット」が愛犬のシェパード、シェーンとともに悪人を倒してゆくといった、ヒーローものでした。ホンダのスーパーカブを白く塗装したようなオートバイに乗って颯爽と登場するシーンに子供たちは歓声をあげて熱狂したものです。この少年の武器が変わっています。カンフーの気を送るようなポーズで「ウー・ヤー・ター」と叫んで悪人どもに衝撃波を与えてやっつけるのです。「ドラゴン・ボール」のカメハメ波の前身でしょうか。

テーマソングはこんな曲でした。子供の独唱で( )は児童合唱団が歌っています。
 
(ワン、ワン・・犬の鳴声)
 1・ 勇気だ ちからだ 誰にも負けない
            この意気だ (ヤァッ)
    白いマフラーは  正義のしるし 
         その名はジェット (少年ジェット)
         進めジェット  (少年ジェット)
                  J・E・T!
 
(パン・パン・・・銃声)
 2・ 行こうぜ シェーンよ とりこ(虜)に
        なっても 負けないぞ  (ヤァッ)
    正しく強い  この快男児  
    その名はジェット (少年ジェット)
      ゆこうジェット (少年ジェット)
       J・E・T!

   
3・すごいぞ 速いぞ  平和の敵は
          目の前だ (ヤァッ)
    やったぞ あれは僕らの味方 
    その名はジェット (少年ジェット)
      走れジェット  (少年ジェット)
                J・E・T!


と、こんな歌でした。(時代を感じる歌詞ですね)詳しい歌詞は忘れていましたが、この曲を聴いたとたん懐かしい子供時代が目の前に甦ってきました。男の子はこの番組が大好きで、学校の行
き帰りにはみんなで肩組み合って、大声で歌いながら歩いたものです。
将来の不安も悩みもなくただただ遊びに明け暮れていた楽しい子供の頃にあっという間に戻れたのです。

この番組に熱狂していた頃から数十年経った今、身体も衰え気力も萎えつつある年齢になってきました。そんな時、この曲に思いがけず出会ってまた身体の中から「元気」がよみがえってくるのを感じます。    05・11・11
     写真の漫画は、少年ジェットではありませんがこんな感じのテレビ映画でした。           Youtube で歌がありました(2018年)

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11・クイズ・いくつ分かりますか?〜作曲家名

今回はちょっとお遊びを・・・。中国語で作曲家の名前を読めて書けますか?もちろん書けるわけは有りませんね、でもちょっと見ていると何となく読めるから不思議なものです。

音で表したり意味で表したりしているのでなぞなぞを解いているようです。日本語だと外来語は大体発音どうりにカタカナで書くので簡単ですが、中国語はひらかな、カタカナがないので全て漢字で書かなければなりません。非常に難しいですね。

ここに問題を出しますがあなたはいったい何問分かるでしょうか?全問正解の方は多分中国人かそうでなければ天才でしょうね。ちょっと息抜きに遊んでいってください。

(1)泰雷曼 (2)巴哈 (3)莫札特 (4)舒伯特 (5)佛瑞 

(6)貝多芬 (7)布拉姆斯 (8)蕭邦 (9)海頓 (10)孟徳爾松 

(11)比才 (12)柴可夫斯基 (13)艾爾加 (14)韓徳爾 

(15)李斯特 (16)威爾弟(17)普契尼 (18)郭徳堡変奏曲


どうですか。幾つ分かりましたか?私は文字を探して打ち込むだけで一苦労しました。この漢字を見ているだけで頭が痛くなってきますね。これは台湾で買ったCDの解説にあったものです。中国の文字は簡略されているのでこれとは違いますが香港、台湾、シンガポールはみんなこの繁体文字です。

分からない人にヒントを・・・(1)食卓の音楽で有名 (2)音楽の父 (3)神童 (4)歌曲王 (5)レクイエムが有名 (6)楽聖 (7)交響曲4曲が有名 (8)ピアノの詩人 (9)交響曲の父 (10)ヒントなし (11)カルメンが有名 (12)ロシア人 (13)ヒントなし (14)ヒントなし (15)ピアノの魔術師  (16)オペラ王 (17)トスカ (18)これのみ曲名です。 

(5)なんかは相当難しいですね。中国語では”フォウルイ”と発音します。

今回は少し横道にそれましたが、いかがでしたか?正解は次回で載せます。ヒントなしは難しいですが「音読み」で発音してゆくとわかるかも知れません。

私は台湾に留学していたし、最近も仕事でよく行くので読めるのですが、つくづく中国人に生まれなくてよかったと思っています。こんな難しい漢字を覚えなくてはならないので、本を読むのが苦痛になるからです。(読むことは出来るのですが書くのはもっと難しいです。)

その昔、日本のご先祖様が漢字を取り入れたのですが、良くぞ「カタカナ、ひらかな」を発明してくれたものです。感謝すべきことですね。
05・12・10  (写真はヘンデル)
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12・刺激的な台湾の夜市

今日はちょっと台湾の話題です。日本にいちばん近くていちばん友好的な台湾。そこは南国的な気候と同じように人情もあつくおもてなしの心にあふれた楽しい国です。

私は何年か前に中国語の勉強のために語学留学していたので、ことのほか「懐かしいところ」です。たくさんの友人も出来、今でも仕事の関係でよく行くので第二の故郷のようになっています。それに台湾には日本には無くなってしまった昔懐かしい風景がまだたくさん残っています。

その一つに「夜市」があるでしょう。日本では夏祭りとか定期的に開かれる「夜市」はいか焼きとか、たこ焼き、金魚すくいとかの屋台が出て、賑やかになるのですが、それもつかの間だけの楽しみに終わります。

でも台湾では何処でも、毎晩「夜市」が開かれます。これには「小吃」の屋台(庶民的な軽い食べ物)が一堂に会していて食事だけでなく衣類、雑貨品などちょっとしたB級デパートのようになっています。

ここは夕方暗くなってからが本番で、近在の住人、観光客などが入り混じって熱気に満ちて食べ物の匂いと人の波でごったがえすのです。

じつは、台湾にきた観光客が一番興奮するのがこの「夜市」めぐりなのです。博物館や名所旧跡を訪れた日本人の多くが「どこが面白いの?」と半ばしらけていたのに、ひとたび夜市に来るなり目を輝かしてちょっとした興奮状態になるのが常です。

台湾の夜市には、新しい出会いがあります。見たことのない食べ物や料理に「どんな味がするんだろうか?」と好奇心がそそられます。食べ物だけでなく値段の安さにびっくりする衣類や雑貨品など品質にこだわらなければ何でも揃います。

私の台湾の友人なんか、家には炊事場がいらないほど、毎晩夜市で家族全員で食事を済ませると言っていました。なるほどあらゆる物があり、おまけに値段も驚くほど安いので主婦はここに来たがるはずです。

ここでの楽しみは、気軽なかっこうでぶらぶらと歩き回り、これといったものをちょっとづつ食べてゆき、最後はフルーツのデザートや甘い点心などでさっぱりと締めくくります。でも気をつけなければならないのは暑いからといって「かき氷」や「アイス」を食べ過ぎるとお腹を壊しますよ。

雨の降る時には店も人出もさっぱりで、行かないほうがいいです。

それと、観光旅行のときはみんなとはぐれてもいい時の為にあらかじめ集合場所を決めることと、スリにも気をつけたほうがいいですね。狭い通りに歩けないほどの人があふれる時があるからです。

この事を書いていて、台湾を思い出してしまいました。あそこでの美味しい想い出が頭いっぱいになりおもわずよだれが出るほどです。
正月には行きたいなあ〜! 
 
前回の中国語クイズの正解です
(1)泰雷曼=テレマン (2)巴哈=バッハ (3)莫札特=モーツァルト (4)舒伯特=シューベルト (5)佛瑞=フォーレ (6)貝多芬=ベートーベン (7)布拉姆斯=ブラームス (8)蕭邦=ショパン (9)海頓=ハイドン (10)孟徳爾松=メンデルスゾーン(11)比才=ビゼー (12)柴可夫斯基=チャイコフスキー (13)艾爾加=エルガー (14)韓徳爾=ヘンデル(15)李斯特=リスト (16)威爾弟=ヴェルディ(17)普契尼=プッチーニ (18)郭徳堡変奏曲=ゴールドベルグ変奏曲(バッハ曲)

いくつ分かりましたか?      <ページトップに戻る>

13・映画と音楽

映画と音楽は切っても切れない関係ですね。音楽によってその映画の価値がぐんと上がる場合もあるしまた、つまらなくなる場合もあります。

アメリカ映画の場合は、昔から専門の作曲家に依頼してわざわざその映画に合った曲を入れるほど重要な要素になっています。ところが日本映画の場合はその点、安易に考えていて映画音楽の重要性が認識されたのはアメリカ映画に比べてだいぶ遅かったように思われます。クラシック音楽に関しては、映画の性格上アメリカ映画よりは、文芸作品の多いヨーロッパ映画によく使われていました。

総合芸術である映画において音楽の重要性を知り尽くしている監督が選ぶ音楽です、その音楽の部分的な利用ですが非常に的を得たものがあるはずです。

なぜ監督はその音楽を使ったのか・・・なぜそのシーンだったのか。そういうことまで考えて音楽と映画を見てゆけばより楽しむことが出来ますね。なぜなら映像、音楽に厳しい監督たちは、その音楽の最も特徴的な所を吟味して使っているからです。

全てを紹介していてはきりがないので、私の気にいった、また印象に残った映画を少し紹介しましょう。

まず最も強烈で印象的だったのはキューブリック監督の「2001年宇宙の旅」(69年)の冒頭のR・シュトラウス交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」でしょう。宇宙空間から見た地球から輝く太陽が、大スクリーンに音楽にあわせて上がってくる冒頭場面は強烈でした。高らかに奏される重厚で壮大なテーマはわずか数十秒ですがこの映画の全てを象徴するほどの素晴らしいプロローグでした。

この曲を選んだ時点でこの映画の成功は約束されたようなものです。他には宇宙空間を漂う宇宙ステーションや飛び交う宇宙艇の場面ではJ・シュトラウスの「美しく青きドナウ」のワルツが流れたり、現代作曲家のリゲティの「レクィエム」などの神秘的な音楽も効果をあげていました。

私はこの映画を中学生のときはじめてみたときはそれこそ腰を抜かさんばかり驚きました。一回見ただけでは訳がわからず確か3回目で少しわかった記憶があります。この頃はCGなどなく無重力の宇宙空間の画期的な映像に驚いたものです。

この他、印象に残っているのは同じキューブリック監督のホラー映画「シャイニング」(80年)の幻想交響曲の第五楽章の悪魔的な主題でしょう。人間の心が悪霊によって次第に狂気へと変化してゆくといったホラーでしたが格調高い映像美と音楽の効果によって悪夢のように忘れられない映画になっています。

映画音楽で最も多く使用されているのは多分モーツァルトかベートーベンだと思いますが、私にとってはバッハの音楽が一番思い出に残っています。

ソビエト時代の異才、タルコフスキーのSF映画「惑星ソラリス」(73年)に使われたバッハのオルガンコラール・BWV639です。惑星ソラリスの軌道上の宇宙空間で、ある物質の影響で人間の潜在意識を具現化させるという空想映画ですが深い哲学的な思索と広大な宇宙の映像がバッハの厳粛な音楽との相乗効果でこの映画の神秘性をいやがうえにも高めていました。

今では、この映画が思い出として残っているのか、それともバッハの音楽自体が残っているのか判然としないほど、映像と音楽が一体となって心の奥深くまで浸透してしまっています。


 
皆様も思い出に残る映画はおありでしょう。でもよほど気をつけて聴いていないと聴き逃したり忘れてしまったりするものです。ましてや知らない曲の場合は完全に忘れていますからね。

まだまだ、素晴らしい音楽を使った映画はあるのですがあまりにも多すぎるので今回はこれくらいにしておきましょう。 06・02・1  <ページトップへ>

14・死ぬかと思った

先日、書店でこんな変なタイトルの本を見かけました。こんな本が1巻から6巻まで出ていて平積みしてあるのです。ちょっと興味がありつい立ち読みをしてしまいました。

内容は、ホームページの書き込み欄に書かれた匿名の人の、肉体的精神的に死ぬほどの恥ずかしい目にあったことやら、実際に死の淵まで行ったという経験談を書き連ねてあるだけのものでした。大抵は十行くらいの体験談ですが、読んでいるうちに可笑しいやら、同感するやらで知らない間に何分も読みふっけってしまいました。

余計なことをして死ぬほどの恥ずかしい目にあった、とか本当に死にそうになったという経験談が集められていましたが、多くは、生理現象(排尿、排便)に関する事が多くて、読んでいて「あるある!あるある!」の連続でした。

誰でも人生長いこと生きてきたら、こういうことの一つや二つはあるはずですね。私もみっつや4つはすぐに思い浮かびました。

ちょっと、恥ずかしいのですがお話しましょう。
小学校の修学旅行の帰りのバスで、何時間もトイレ休憩がなく、尿意を我慢していたのですが、限界ちかくまで来たときにやっと学校についたので、一目散に学校のトイレに駆け込んだところ、ちょうど掃除が終わったところでしょうか流し水できれいにされていました。そこに全速力で飛び込んできたのですからすべるのは当たり前です。

私は天と地が訳がわからなくなるほど回転してトイレの床に頭を打ち付けてしまいました。後は話すのも恥ずかしい状態になったのです。しばらくは脳震盪を起こしていたのでしょう。気がつけば保健室で寝ていました。下着はきちんと換えられていた事はいうまでもありません。恥ずかしさと痛さで、死ぬかと思った・・・!(その1)

こんな調子のお話が満載で、この世の中、同じような経験をしている人は幾らでもいるんだなあと、変に安心したりしました。
この本の趣旨は、後で笑えるものとか死ぬほど恥ずかしいい目にあったことなどに重点を置いているので、読んでいてても、ついつい笑いがこみ上げてきます。

本当に死にそうになった経験はいくらかあります。子供のころトラックに轢かれたけど、車高の高い車だったので、間一髪車体の下で助かったとか。大人になってからは自動車で峠の崖の道でスリップしてに落ちそうになり、間一髪山側の岩のほうにハンドルを切り何とか助かった(自動車は大破で、体は全治1ヶ月でしたが)とか、海でボートをこいで遊んでいたら転覆して死にそうになったとか、笑えない、本当に死ぬかと思った・・ことは幾らでもあります。でもこういうのは採用されていません。その体験が笑える面白いのがいいそうです。
病院の待合室でもよくお爺さん、おばあさんが自分の病気を(自慢?)話しているの聞きますね。あれこそ病気自慢ならぬ不幸自慢をしているのですね。・・・・この本はそういう内容の本でした。
とにかく、世の中にはいろんな人がいるもんだと妙に感心しました。

最後に笑えるネタをすこし・・・・。若い頃、パチンコに凝ってよく行っていました。ある日思いのほかによく出る台にめぐり合いどんどんドル箱が増えてゆきました。長時間していると尿意を催してきたのでトイレに行ってすっきりして自分の台に戻ると、何と見知らぬ男が私の台でやっているではありませんか。私はかっとして「何をやってるんだ!」とその男の胸倉をつかんで怒鳴りました。ところが筋違いの列の台を私が見間違えていたのです。慌てて謝りましたが運の悪いことに剃り込みを入れたようなやくざ風男で、私は長時間土下座をして謝り何とか許して貰いました。

言うまでもありません、あれほど好きだったパチンコはそれ以来ほとんどやっていません。その時は本当に死ぬかと思った・・・。(その2) 後にやくざがらみの死ぬかと思ったという体験は、仕事の関係で2件ほどありますが、これはリアルすぎて思い出すのも嫌ですね。

もう一つ。東南アジアのある国に家族で行った時です。子供が小さかったので、山の上にあるひなびた遊園地に行きました。プールや遊戯施設も揃っていて結構楽しめたのですが、私は併設されていた動物園にも行きたくなりました。「スネーク・ランド」と書いてある洞窟状の施設に興味があり、皆で行こうといいましたが、家族は嫌だと言うので私一人で入りました。

中は洞窟のトンネルのようになっていて薄暗く、いろんな蛇がガラスで仕切られた檻の中にとぐろを巻いていました。ずんずん進んで行くと、なんとキング・コブラと英語で書かれている檻のガラスが大きく割れているではありませんか!中には一匹も見当たりません。私は、身の毛がよだつほど驚き、もと来た道を急いで戻りましたが、薄暗いのと怖いのとでものすごく時間がかったような気がして生きた心地がしませんでした。この時は本当に死ぬかと思った・・・。(その3)

まだまだ、幾らでもあるのですがこれくらいにしておきます。

このように、死ぬほどの体験話を、笑ってできるのは幸せですね。ここに現に元気で生きているからこそ、できるのです。
皆様もこんな体験をどんどんして何とか生き延びていってください。 06・02・4  
                     <ページトップへ>

15・トリノ・冬季オリンピック始まる!

ついに待ちに待ったトリノ・オリンピックが始まりました!
直前まで会場建設が遅れていて、果たして間にあうのだろうかと、ハラハラさせましたが いざ始まってしまうとそれはそれは立派な競技場が出来上がっていてびっくりさせました。さすがは陽気で調子のいい人が多いイタリア人です。きっちりと間に合わせてきましたね。

日本時間の明け方4時過ぎから始まった開会式は絵画と音楽の発祥の地だけあって歴史を感じさせる素晴らしいものでした。
またオノ・ヨーコがジョン・レノンのイマジンを朗読したのには驚きましたね。
世界平和を願ったこの歌は心に深く残りました。

ところで私は選手入場の風景が大好きです。
各国の人々が思い思いの衣装で、期待に胸膨らませて満面の笑みを含めながら行進する選手たちの姿を見ると、こちらもうきうきするほどの幸せな気分になります。

今回は例年になく、南国のエチオピアやケニヤ、バミューダ、香港、タイ、などの雪とは縁のない国も多く参加していて興味深かったです。このように世界各国から選ばれてきたアスリート達が一堂に会して、厳格なルールの下、力の限り真剣に戦う姿は、たとえ敗れようが見るものを感動させてくれます。
純粋で真剣に取り組む姿が感動させてくれるのですね。

このあと、競技は進んでゆきますが、日本選手がどれほどいい成績をあげてくれるか ますます楽しみになってきます。
それに従って、私の寝不足もどんどん増えてきますが、やはりできるだけリアルタイムで応援したいものです。06・02・12    <ページトップへ>

16・どうした?ジャパン!

日本選手の成績が今のところちょっと芳しくありませんね。
どうしたのでしょう。オリンピックというビック・ネームのプレッシャーに日頃の実力がでないのでしょうか。

この日のために想像を絶する練習をしてきただろうに、せっかくの本番で失敗するほど残念な事はないでしょう。テレビで見ていて、選手の涙を見るほどつらい事はありません。
表彰台に上がれるには実力と運がなければ難しいでしょうが、せめて失敗がなく競技を終えて欲しいですね。
ただそれを願うばかりです。

昨日も男子モーグルを見ていましたが、何百メートルもある傾斜のきつい斜面をたった22〜3秒で駆け下りて来るのには驚きました。

それも、ただの斜面ではなく「こぶ」がありおまけに2箇所小さいジャンプ台があって、回転したり、宙返りするのです。
見ていてただただ驚嘆するばかりでした。
私はスキーを始めた頃、数百メートル位の斜面を降りるのに4時間もかかった事を思い出しました。

斜滑降でちょっとすべればこけて、また方向を変えては斜滑降ですべり、下におりた頃は日が暮れかかっていたのでした。もちろん、体中あざだらけになりました。

こんな危険で難しいスキーですがこれほど楽しいスポーツはないですね。

いよいよフィギア競技が始まりますね。日本の美女3人が揃って表彰台に上がってくれる事を祈って応援しましょう。02・02・16  <ページトップへ>

17・世界ウルルン滞在記

朝日新聞に「子供に見せたくない番組」のワーストテンを発表していました。「クレヨン新ちゃん」や「志村けんのバカ殿様」などの人気番組が上位を占めていました。これは毎年のことで、ばかばかしい、常識やモラルを逸脱している、言葉が乱暴、・・・などが理由です。いつの時代も子供はこんな低俗なもの、乱暴なものが好きなのです。

こういうものをテレビで流すから、子供は見るのです。ただ単に視聴率ばかりを気にして番組作りをするから、視聴率のいい番組の上位にはこういう低俗番組がはびこります。

中国や北朝鮮の教育のやり方ひとつでよく分かりますが、何も分からない子供を洗脳して、国家の思い通りの人間を創り上げようとする刷り込み教育は世界に害毒を与えるだけです。

日本では子供達を馬鹿に仕立て上げようと、日夜放送しているとしか思えない番組が多すぎます。幾ら言論の自由があるといえ限度があります。面白ければいい、視聴率さえがよければいい、など番組を作る人のモラルを問いたいくらいです。

さて、本題の「世界ウルルン滞在記」はもう9年も続いている楽しい番組です。
これはTBS系の異文化交流ドキュメント・バラエティ・クイズ番組です。世界中にタレントを派遣して、1週間から2週間ほどホームスティさせて、そこで起こった事柄をクイズ形式で出題するといったバラエティ番組です。インドネシアの裸のダニ族とか、バヌアツの裸族など腰布ひとつの生活を体験する、タレントの意気込みを見るのも面白いものです。

昨日は若手俳優の西興一朗がタイ南部のセマン族という原始的な木登り名人の部族の所に滞在していました。腰蓑一つでジャングルに暮らし、外界からの交流をかたくなに拒んでいる人たちの心に巧みに飛び込んでいって、最後には決して招き入れない家の中に招待されるまで心を開かせていました。

うれしいとき、悲しいとき、その部族は木登りをしてその意思を表すといわれているのですが、最後のお別れは村の若者が全員木に登って日本の若者との別れを惜しんでくれたのです。抱き合って泣く場面も感動的ですが、そうして木に登って別れの悲しみを表す彼らの純粋な心根についつい目頭が熱くなりました。

この番組の興味深いところは、タレントが単身で最小限度のスタッフとともに滞在し、夜は通訳すら別の場所に移動して、全くタレント一人を現地の家族において置くという事です。ここで独りぼっちにされたタレントの心細さは想像を絶するでしょう。カメラが回っていないので仕事は終わりますが、これからが現地の家族たちも緊張が取れて、とても親切になるといいます。
その暖かい親切にタレント達は仕事を超えて一人の人間として応えざるを得なくなってくるようです。現地の人たちは、(特に裸族は)遠路はるばるやってきた外国人が、自分と同じ服装、ふんどしや腰布などを付けてくれるので、これだけでも感動するそうです。

同じものを食べ、同じように働く、ただそれだけの番組ですがそれがまた魅力なのです。台本にはない筋書きの無いドラマががあるからです。

別れのとき、決まってレポーターは号泣しますが、その理由はスタッフにもわからないそうです。カメラに写っていない時に、家族達とほんとうのかかわりがあったのでしょう。

たった10日間あまりの時間であれほど別れを惜しんで泣くでしょうか?「また会いましょう」と言っても、もう二度と会えないことが分かっているのであれほど悲しいのでしょうか。まさに「一期一会」とはこのことでしょう。

この番組の面白いところは、取材する現地が未開で貧しく、原始時代そのままの生活をしているような所ほど、人間らしい優しさと、威厳を保っているように感じます。若者は年配者を敬い、家族及び住民が明るく笑いが絶えなく純真なのです。今の文明社会が失ったものがあそこでは満ち溢れていることに驚きます。

世界を見れば恨みばかりを強調して教育し子供達の魂を捻じ曲げている独裁国家や正義の名のもとテロを続けている集団があるし、国内では老人とか、弱いものをだまし、金を搾取する悪徳リフォーム業者や振り込め詐欺師など、悪人が跋扈する暗い世の中に、一筋の光がさしてくるような、心洗われる番組ではありませんか。私はこの番組を見るのが最も好きです。見られないときはビデオに撮ってでも見ます。

人間の「善の部分」が垣間見られるからです。
因みに「ウルルン」とは、泣くことではありません。出会、泊ま、見、の語尾から取ったものです。06・02・20  <ページトップへ>

18・やったね!金メダル

トリノ・オリンピックで日本初の金メダルが出ました。荒川選手!おめでとう!そしてありがとう!と言いたいです。

今日は時差の関係で早朝から女子フィギア競技があったのですが、見ることは出来ず7時に起きたらテレビでこの大会初の金メダルを獲得した事を報道していました。
起きるなりこんなにうれしい知らせはなかったですね。皆様もきっと同じ思いだったでしょうね。

今年のオリンピックは開会式の興奮から一転して、競技が始まると日本選手の低調さが目立ち、まだ一度も表彰台に日章旗が揚がることはありませんでした。

日頃の成果が出ずに予選落ちばかりが続き、決勝にも出られないほどの競技が続いていたので、ついテレビを見る事もなく、最近ではまだオリンピックをやっているの?と思うほどの興味のなさでした。(選手のみなさんすみません)でも今回の快挙でまた盛り上がりが出てきましたね。

何もメダルが全てとはいいませんが、結果の伴わない努力というのは誰も認めてくれないもので、ましてやオリンピックでの桧舞台を夢見て努力を続けてきた選手達の落胆は部外者には分からないものでしょう。マスコミや国民の期待を一身に背負っての戦いはつらいものだったでしょうね。

そんな中で女子フィギア競技の荒川静香選手はプレッシャーをはねのけて見事、一位に輝きました。本当におめでとうと言いたいです。

また、この競技での優勝はオリンピック史上初のアジア人が獲ったという事でも大きな意義があるでしょう。
こんなにうれしい結果だったのですが、欲を言えば村主(すぐり)、安藤、選手も揃って表彰台に上がって欲しかったなあと思ったのものです。
          06・02・24 <ページトップへ>

19・「団塊の世代」改め「感動の世代」


一山いくらの野菜か果物のように、団塊の世代なんて言葉はやめて頂きたい!
我々いわゆる団塊世代は何も好き好んでこんなに多く生まれてきたわけではないのに、あらゆることで不自由を感じて生きてきました。

まず小学校の教室の不足。都会では2部授業など当たり前でしたね。今週は午前の授業、来週は午後からと、一つの教室を2クラスが共同で使用していたのです。だから切り替えの週初めはよく時間を間違えて学校へ行ってびっくりしたものです。

それから、日本の経済的事情から来る学校給食のおそまつさ、特にあの脱脂粉乳には閉口しました。栄養を充分取らなくてはならない時期にあんなまずいものを飲まされて、牛乳を残す人が多かったのを覚えています。
我々の世代は皆体格が悪いのはあたりまえですね。

中学時代は受験生が多いので高校入学の競争率の高さ。そしてつづく大学入学の難しさ。こういう風に一生競争がついて回ります。

結婚問題では、同年代の女性は3〜4歳上の年代の男が少ないので結婚難。(今だに結婚していない同級生もいます。)中年になってからは、今度は我々が働いて払ってきた多くの年金がどこかにだだ漏れで、「無い」と言うではありませんか。貰う頃には年金事情が破たんして貰えないかも・・・。なんて不安もあります。

私は常々この「団塊世代」という言葉が嫌いでした。これからはこの世代のことを「感動の世代」と呼んで欲しいのです。我々が生まれて育ってきた足取りを、辿ってゆくといつも新しい事の連続だったからです。

身近な所からまず、映画。白黒からカラーになりスクリーンもワイドになりました。初めて映画館でカラーを見たときは思わず拍手をしたほどです。その後テレビが普及して、ニュースやドラマが生で見られるときの感動。当時はビデオがなかったので、テレビ番組は全て、生放送でコマーシャルまで本番でやっていました。よく女性タレントがセリフを忘れて立ち往生しているのを見たものです。やがてカラーになりビデオができ、相撲などさっきの一番をもう一度繰り返して流すので、お年よりなどはじめの頃はまた同じ取り組みをするのかと勘違いをしていました。

アジアで初めての東京オリンピック大阪万国博覧会。いよいよ日本も国際世界の仲間入りだと嬉しかったものです。「月の石」を見たさにアメリカ館の周りを何時間も並んで見たのもいい思い出です。世界初の国家間衛星放送のアメリカからの第1声が、ケネディ大統領の暗殺の報道。これほど衝撃的なことはなかったです。

音楽関係でいっても、レコードのモノーラルからステレオ、ラジオ番組のステレオ化。今はステレオは当たり前ですが昔はAMラジオを2台並べて一台は朝日放送、もう一台は毎日放送と左右に電波を分けてステレオにしていた時期もありました。そしてCD時代の到来。溝がないのに鳴るのには驚きました。

家庭で言えば、洗濯機、冷蔵庫、の普及。本当に驚きの連続でした。食べ物では即席めん、レトルト食品、アメリカからきた奇妙な味のコーラ、本当にこれらの新製品の発売にリアルタイムで接したのです。それも子供の頃から青年時代と一番感受性の深いときにこれらの新しい物と出合ったのです。
最近の若者のように生まれた時から何でもある時代ではないのです。何もないところから芽が出て大きく育つ所を見て育ちました。小さい時から今まで、新しいことに出会っては「驚きの連続」でした。だから、どの世代の人よりも感動が大きいのです

我々の上の世代の人よりも新しいものに対する免疫があるので、何でも挑戦しょうとする意欲は旺盛だと思います。パソコンでも携帯電話でもIT時代の到来でも、へっちゃらです。何でも挑戦してゆけます。

ただ残念なことは体力が落ちていることと、老眼が進んで来ているので小さい文字には閉口しますね。あと 一番の障害は、リストラ世代になって会社から、整理の対象となって収入が落ちていることでしょうか。でもこれは仕方のないことです。

とにかく生きている限りなんでも興味をもって元気に過してゆきたいと思うこの頃です。
「感動の世代」・・・これからもがんばれ!と、自分を含めて応援したい気分でいっぱいです。06・03・01 
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20・サラリーマン川柳

第一生命が一般公募して集めた川柳コンテストが今年で19年になります。その秀句を集めた本がベストセラーになった事もあります。私も一冊買って読みましたが、この世知辛い世相を皮肉と諦めと批判がないまぜになった優れた川柳に、苦笑と爆笑の連続でした。

何年か前の朝日新聞に載った「21世紀に残したいサラリーマン川柳」が目にとまったのであまり面白かったのでノートに控えていたのをちょっと書き出してみます。腹のそこから笑えるのもあるかと思えば、何か身につまされて笑えないのもあります。皆さんはどう感じますでしょうか。

10位 コストダウン 叫ぶあんたが コスト高
9位  まだ寝てる 帰ってみれば もう寝てる
8位  ブリはいい 生きてるだけで 出世する
7位  早くやれ そういうことは 早く言え
6位  人が減り 給料減って 仕事増え

5位  耐えてきた そう言う妻に 耐えてきた
4位  やせてやる コレ食べてから やせてやる
3位  さからわず いつも笑顔で 従わず
2位  宝くじ 馬鹿にしながら 根は本気
1位  プロポーズ あの日に帰って 断わりたい

こうして眺めてみてもサラリーマンは家庭でも会社でも辛い目にあっているんですね。心の底から素直に笑えない川柳ばかりです。

これは朝日新聞の読者か記者が選んだものなので私が選んだのとは少し違います。私が面白いなあと思った川柳もちょっと紹介しましょう。

一戸建て 手の出る家は 熊も出る (ヤドカリ)
父帰る 一番喜ぶ 犬のポチ (ポチ)
親の希望(ゆめ) つぎつぎ消して 子は育つ
かわいい子 旅をさせたが 帰らない  (行きっぱなし)
久々の化粧に 子ども あとずさり  (素顔の女)
太るなら おいしいもので 太りたい
ウインドウズ 窓は開けたが 閉められず  (ドロボー)
デジカメの 餌は何だと 孫に聞く  (浦島太郎)


このように人はみんな不満や悩み憤りを、17文字に託して笑い飛ばしているのですね。少し自虐的でやりきれない句もありますが、読んでいるうちに何か気持ちがスッとしてきます。

自分の言いたいことを代わって言ってくれたという満足感からでしょうか。
こんな気持ちは若い人には理解できないでしょうが中年には、なるほどとうなずく川柳ばかりなのです。(情けない事ですが)

このあいだ、レンタル店で「綾小路きみまろスーパーライブ」というCDが目にとまったので借りて聞いてみました。ところがこれが面白いのなんのって久々に大笑いしました。
テレビでは有名でよく知っていたのですがその公演は聞いたことがありませんでした。50分にも渡るライブ漫談は中高年にとっては身につまされることばかりで、腹がよじれるほど笑い転げました。

話の節々で、サラリーマン川柳の一節が挿入されてその笑いの効果をより高めていました。
例えばダイエットについての話題で、演芸会場に来ている中高年の奥さんに向かって・・・・・・

「いいですか奥さん、あなたも、あなたも 痩せる事ないんです。「ブスが痩せてもブスです!」 中高年の方はダイエットが出来ません。なぜかと言うと[物を残すなと]いう時代を生きてきたからです。旦那が残したもの、犬が残したもの、仏壇にあげたもの、全部口に入れないと気がすまない世代なのです。

中高年のダイエット 今食べたのは明日の分
中高年のダイエット 痩せたねと言わせるつもりがやつれたね
中高年のダイエット 犬の散歩で犬が痩せ・・・・・・・

この点について、何かご異議がありませんか。なければ話を続けます・・・
・。」

と言う具合に続いてゆきます。

なるほどこんな調子で毒づいていたらテレビ中継は無理なわけですね。50分になろうとする演目は全て中高年をネタにして笑い飛ばしているのです。最近は若手の漫才師ばかりでその話題も我々には縁のないことばかりでちっとも面白くなかったのですが、久しぶりに面白い漫談を聞きました。
こんな混沌とした複雑の世の中ですが、最近では笑うに笑えないことばかり起こっています。

例えば何年か前、年金問題で江角まき子さんの未納問題から端を発して国会議員の多数、総理大臣や政党の党首までもが未納だったということが発覚して大騒ぎになったのは、笑って済ませない冗談でしたね。

あまりにも国民を馬鹿にした出来事で開いた口がふさがりませんでした。年金が足らないから支給年を繰り下げるとか、支払い金を増やすなどの、国民に負担を負わすことばかりが簡単に決まってしまいました。

将来、必ず年金が足りなくなるのは何十年も前から、分かっていたのに、有る時は湯水のように使い、いざ必要な時には国民に負担を強いるなんて、明らかに失政だと思いますが、皆さんはいかかがお思いでしょうか?ここに至る前に対処する事とかもっと節減するところがあったのではないでしょうか。

最近では、耐震偽装建築事件、国から委託を受けた検査する機関も巻き込んでの偽装事件は、全く誰を信用すれば良いのか分からなくなってきます。一生に一度の大きな買い物であるマンションが震度5以上の地震で崩れるかも知れない・・だなんて、冗談ではすみません。「川柳」にして笑い飛ばせないほどの大きな深刻な問題でした。

川柳で気楽に笑い飛ばせるほどの、明るい気楽な世の中であって欲しいとつくづく思うこの頃です。       06・03・04
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21.女学生 〜ワルトトイフェル作曲

 
♪〜うす紫の藤棚の 下で歌った アヴェマリア 
   澄んだ瞳が美しく なぜか心に残ってる 
   君はやさしい 君はやさしい 女学生

   セーラー服に 朝霧が 流れていった 丘の道
   赤いカバーのラケットを そっと小脇に抱えてた
   君は明るい 君は明るい 女学生

   はるかな夢と 憧れを 友と二人で 語った日
   胸いっぱいの幸せが  その横顔に光ってた
   君はすてきな 君はすてきな 女学生〜♪


FMラジオからこんな懐かしい歌が流れてきました。安達明という、もう名前さえ忘れていた歌手の「女学生」という曲でした。突然、何十年も前の中学生時代の思い出が頭をよぎりました。恋というものを知り初めたあの頃の、恋心をそっと心に秘めていただけの懐かしい思い出とともに甘酸っぱいものが心に広がりました。

あの頃は女学生というものはやさしくて明るくてまた清純なものだと思っていました。まさにこの歌詞のようにです。(現実にはそうでもなかったのですがね・・・・・。)

特に上級生の女学生は輝いて見えました。
私の想っていた人は一学年上の生徒だったのですが、2〜3日毎に教壇に飾る生け花を抱えて登校している姿を、バス通学していた車窓からよく見かけたものです。本当に美しく輝いていました。学校の委員会などで会うだけで親しく話などしたこともないのにいまだに忘られないはかない思い出です・・・・・。

皆様もこんな思い出があるでしょうね。(写真はちょっと古いのですが高峰秀子主演の映画「はなつみ日記」より。このときの高峰さんによく似た感じの女学生でした。)

クラシック音楽にも「女学生」のけがれない輝かしい曲があります。
ドイツ系フランス人のワルツ王・エミール・ワルトトイフェル(1837-1915)の作品「女学生」です。スケーターズ・ワルツ、ワルツ「愛と春」「美しいくちびる」などの甘くとろけるような美しい曲をたくさん作曲しています。

あまりに美しい曲ばかりなので一時凝った事があり、何枚か輸入盤を探して聴きましたがやはり「女学生」が一番でした。あまりにも甘い曲をたくさん聴いておなかがいっぱいになりましたが、美味しいケーキも2〜3個が限度でしょう。それ以上食べると胸につかえますね。

代表曲の「女学生」はカスタネット、タンバリンが活躍する明るいメロディックな曲ですが中間部に短調で曲想が一瞬変わるところがたまりません。ほのかな哀愁をたたえたこの佳品の魅力は計り知れませんね、本当に抱きしめたくなるような美しさです。 06.03.07
            <ページトップへ

*ワルトトイフェル:女学生 シュトルツ指揮ベルリン交響楽団



*女学生/安達明(歌)  *森昌子(歌)

若き日の吉永小百合さん、あまりにも美しいのでついつい2曲になりました。


22・懐かしのフォークソング

私の青春時代はフォークソング全盛の時代でした。高石ともや、杉田二郎、フォーク・クルセダーズなどの学生アマチュアシンガーが登場した時代です。
世界ではビートルズがあのマッシュルームカットの髪をなびかせて颯爽とデビューしていました。(多くの学生がビートルズの真似をして長髪にしたものです。)

アメリカがベトナム戦争に介入して膠着状態になり、世界中の学生達が反戦運動にかかわりその運動の一環として歌って民衆に訴えるという方向にフォークソングが発展してゆきました。

当時の日本の歌謡界はアメリカのポピュラーソングの吹き替えか演歌調のものしかなかったので、学生たちの歌う素人っぽい反戦歌風の主張のある曲に多くの若者が飛びついたというのもうなずけます。「戦争を知らない子供たち」「遠い世界に」「悲しくてやりきれない」などの曲は今でも名曲として残っています。

全学連・ベ平連のデモなど学生運動が全国に吹き荒れ最後には東大抗争を経て連合赤軍の浅間山荘事件を頂点にして急速に収縮に向かいました。あの頃の学生はまるで何かに操られていたように社会の不満や悪に対して向かっていったのです。例えその手段が間違っていたとしても若さゆえの激動でした。

ちょうど私が20歳の成人式の日でした。何気なく見ていたテレビで「加藤登紀子の成人に贈る歌」と言う番組がありました。その中で特に印象に残ったのは彼女がどこかうらぶれた港の桟橋で海を背にしてギターを弾きながら歌った「希望」と言う歌でした。

〜希望という名の あなたを尋ねて・・・という歌詞が私の心の中にダイレクトに飛び込んできました。その時に、これから大人として生きてゆく人生はそれこそ希望を尋ねてゆく波瀾に富んだものになるだろうな、とふと感じたものです。

(中年になった今振り返ってみてもまさに、いつもく希望を尋ねて>さまよう半生だったなあとつくづく思います)

その時は加藤登紀子の低く潤いのある歌声に心の底から感動してしまいました。歌のメッセージが心の奥深く染み渡る様な気がしたのです。

私はこれまでクラシックばかりを聴いてきましたが、この時から加藤登紀子の歌声に魅入られてしまったのです。この「希望」の曲が入っていたレコードを購入して毎日毎日聴きこみました。「一人寝の子守歌」や「帰りたい帰れない」などのフォークソングが青臭い若者の心に染み渡ったものです。

今にいたるまでよく彼女の歌を聴きますが、歳を重ねてゆくごとに芸術の幅を広げていって、相変わらず聴衆をを感動させてくれますね。

声がよく、歌も上手い歌手は幾らでもいますが、歌の周辺にある感情とか雰囲気まで見事に表現してくれる歌手はそう多くはありません。聴いていてまるで一篇の短編小説を読んだような気にさせてくれます。それほどその歌に主張があります。そんな歌手はあまり居ませんが間違いなく加藤登紀子はそのうちの一人でしょう。

最近では百万本のバラ、時代遅れの酒場など曲のよさとあいまって、ずっしりと感銘を与えてくれる歌唱です。
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23・隠し砦の三悪人

私は音楽も好きですがそれと同じくらい映画も愛しています。
映画は見る人の人生を何倍にもしてくれますね。

経験できないことを映画は味あわせてくれます。主人公になって戦国時代に行って敵と戦い、また未来の宇宙にでも飛び立ち異星人とも交流できます。また美しい恋愛経験をもさせてくれますし時には悪魔と闘う神父になったり、いろんな体験をさせてくれますね。2時間足らずのこの体験はまさに他人の人生の疑似体験といえるでしょう.

ルーカス、スピルバーグ監督などアメリカを代表する名監督が日本の黒沢明監督を尊敬しているということは有名な話ですが、我々映画の素人でも黒澤の作品の素晴らしさは認識できます。「生きる」野良犬」「七人の侍」「用心棒」「椿三十郎」「赤ひげ」などの作品は日本映画、いや世界の映画界の珠玉の傑作といえるでしょう。

私はこれらの作品を年齢の関係でリアルタイムで見たわけではありません、ビデオ、DVD、テレビなどで鑑賞したのがほとんどです。画面はスコープではなく音声もモノラルで白黒の古めかしいものですが、全ての作品が圧倒的迫力を持って見るものに迫ってきます。

「七人の侍」など3時間を越える超大作ですが、短く感じもっともっと見ていたいと思わせるほどの感銘を与えてくれました。この映画は20世紀の映画史上に燦然と輝く大傑作だと思います。

さて「隠し砦の三悪人」ですが、この作品は「七人の侍」ほど大掛かりな映画ではなく、肩の力が抜けた黒澤の円熟味が余すことなく出ている作品でした。

千秋実と藤原鎌足の二人が演じる憎めない小悪党と忠義の武将そのものの三船敏郎との対照的な配役の妙が非常に面白くこの長編をたっぷり楽しませてくれます。

私はこの映画をなんども見ましたが何度見ても飽きない物語の展開の素晴らしさです。

音楽も黒澤組の佐藤勝でちょっと前衛的な面白い音楽でした。ショスタコーヴィチの交響曲第4番の出だしに似ているなあと思ったくらいです。監督、演者、脚本、音楽と全てに一流が集まるとこんなに素晴らしい作品が出来上がるという見本ですね。

お話は・・・戦に破れた武将が姫を助けて隣国の友好国に脱出させる苦難の道中の物語ですが、途中で敵の農民出身の雑兵二人を捕まえて、枯れ枝の薪に仕込ませた金塊を隣国まで運ばせるのです。この小悪党のふたりの農民を脅したりなだめすかしたりする道中が非常に面白いですね。

ここにあるスチール写真を見てください。事がうまくいかず途方にくれている一場面ですが、この武将を演じる三船敏郎の表情の素晴らしさはどうでしょう。威厳と格式にあふれた姿とは対照的にその目は遥かかなたを見つめています。

昔の武将はこのような目をしていたのだろうなと思わせる表情でした。国を憂いまた自分の進むべき道を探る・・・・大和魂というのはこういう武将こそがもっていたのでしょう。そう思わずにはおれないほどの名演技でした。

現代ではこういう風格のある名優はいなくなりました。現代劇ならともかく時代劇を演じられる俳優が少なくなったことが非常に残念です。

私はこの三船が演じる武将に、その昔、戦争で圧倒的物量を誇るアメリカと戦った日本の将兵とダブって見えてしまいます。絶望的な戦況に、国を思い、家族の身の上を案じ、また自らの進むべき道を憂い、このようなまなざしをしていたのだろうなあ思わずにはいられませんでした。今の日本はこうした多くの人々の犠牲の上に成り立っているのだと思うと感謝の念でいっぱいになります。

ストーリーは結局脱出に成功してハッピーエンドに終わるのですが、私はただ単なる娯楽映画ではないものを感じたのです。みなさまは、この映画を見てどのように感じられるでしょうか? 

余談ですが・・・この映画が、ジョージ・ルーカス監督の「スターウォーズ」のモデルになったということはご存知ですか?この戦国時代の脱出劇と宇宙戦争の映画とどう繋がるのか私にはよく分かりません。06・03・15                   <ページトップへ>

24・第一印象 ・ 好きな顔、きらいな顔

この世の中、第一印象で判断する事が多いですね。入社試験の面接は第一印象が合否を決める要素が多いので、みんな普段とは違う格好をしてゆくのでしょうね。
茶髪だった髪を黒に戻し、ふだん着ない「リクルート・ルックス」で身を包み面接官を騙すわけです。〜まあ、経験豊かな面接官はだまされないでしょうが・・・

人生の一大事である、結婚に対しては顔から来る印象が一番重要ですね。写真の一次審査から始まる「お見合い」ではほとんど顔から来る印象のみと言ってもいいでしょう。とにかく、人間誰でも「好きな顔」「きらいな顔」という傾向が決まっているようで、男女が出会って、まず容姿に好意をもち、付き合いが始まり、それから心が通じ合い恋愛が始まり結婚に至るのが普通です。

なぜ、こんなお話をしたかというと・・・・先日テレビのクイズ番組で非常に面白い問題があったので、この「人相と第一印象」の問題を考えさせられたからです。

それは島田伸助氏が司会をする番組で、有名人の顔写真のどこか一部分が、デジタル加工して実際と変えてあるのですが、その場所がどこかを当てるクイズでした。
例えば、久本雅美さんの写真では目の部分が少し「たれ目」にしてありました。その写真では間違いなく「久本さん」なのですがどこかおかしいのです。

でもそれがどこか分からないのです。また美男・美女俳優の写真でも、ほんの少しどこかを変えると、どこかおかしくなり別人になってしまうのです。鼻の下を少しのばしたり縮めたりするだけでガラッと雰囲気が変わってしまいました。回答者のほとんどは箇所が分からなくて間違っていたのが意外でした。

この番組を見ていて、気が付いたのはちょっとした目鼻の配置が違うだけで、こんなに印象が変わり美醜ですら変わるのかと驚いた事です。まさに「紙一重」という状態なのです。好きな顔も目と目が今よりちょっと離れていると好きにならないのかも知れません。

顔のバランスの妙味は本当に、神が創ったとしか思えないような素晴らしいものだとも思いました。この微妙な数ミリの違いで、好きになったりきらいになったりすること自体、「本能のなせる業」ではないのでしょうか?本当に不思議に思いました。

人間の顔は、若いころは両親の顔をもって大きくなり40過ぎると、それまで生きてきた証が顔に表れ本当の自分自身の顔になるといわれています。・・・・・・・・・
果たして自分はいい歳のとり方をしているのだろうか?そんな事などふと考えさせてくれた番組でした。

最後にテレビ番組「行列のできる法律相談」の丸山弁護士の写真も出ていましたが、本人の顔よりすっきりしていて美男子なのですがどこか変なのです。印象が丸山弁護士ではないのです。どこを変えてあるのか誰も正解者がありませんでしたが、実はなんと、「顔の無駄毛」を全て取った写真だったのです。
これには番組の会場全体が大爆笑で、テレビを見ていた私たち家族も腹を抱えて大笑いをしました。    06・03・16 <ページトップへ>

25・台湾は昆虫天国!

このページは虫ぎらいの方は見ないでください。
私は子供の頃から虫が大好きで、夏になると捕虫網を持って朝から晩まで虫取りに興じたものです。
実は父も子供の頃「虫取りの名人」だったと祖母から聞かされていたので、やはり遺伝なんだなあと思ったほどです。

私が小学校6年生の夏休みの終わりの日に父が突然「虫取りに行こう」と言い出して、朝早くから家族全員が弁当を持って車で郊外の山まで行った事がありました。仕事が忙しかった父は一度も遊びに連れて行ってくれたことがなかったのに、夏休み最後の日曜日に珍しく家族全員を連れて行ってくれたのです。

実はこの小旅行が父との最後の思い出になったわけですが、からだの具合の悪かった父は死期を感じていたのでしょうか、歩くのもつらい状態だっただろうに子供のために明るく元気良く虫取りを教えてくれました。

私が蝶やとんぼを取り損ねると、父は「蝶やとんぼは飛ぶ道が決まっているので、しばらくすると絶対に同じ道を戻ってくるよ」などと教えてくれました。実際そうしているとまた帰ってきて捕まえる事が出来たのです。

このように何でも知っている父は私たち子供たちの尊敬の的でした

今でもはっきり覚えていますが捕虫アミを振りかざして虫を取ると、くるりと空中で一度網をひねるのです。そうすると取った虫が逃げ出さないのです。その時の父の得意満面の表情が目の奥に焼きついています。

こうして、虫取り少年が大人になりしばらく、虫取りのことなど忘れていましたが、台湾に留学する事になり、亜熱帯の公園に明け方になると無数の見た事のない蝶が乱舞をするのを目の当たりにして、また昔の「虫好き少年」が頭をもたげてきたのです。

早速 捕虫網を買おうと文具店や金物店や雑貨店を探しましたが、どこにも売ってありません。仕方がないので漁具店に入り魚とり用の網を買いました。でもこれは目が粗くて布も硬いので蝶やとんぼの羽をいためるのでうすい布を買ってきて自分で網を作りました。

現地の人に聞くと、台湾では普通、誰も虫なんか取りませんとのことで、びっくりしました。どうりで私が蝶を追っているとみんな変な顔をしたはずです。

そんな時です、ちょうど山奥の学校に勤めている友人がいたので彼のオートバイで車の入れないような山奥に連れて行ってもらえることになったのです。

明け方まだ暗いうちから、バイクの後ろに乗り2時間ほど走ると、うっすら明るくなってきました。亜熱帯なので陽が出るともう30度を超えるのですが20度くらいでちょうど涼しい感じでした。朝露でぬれた葉の匂いがあたりを包み込み、いやがうえにも期待を高めてくれたものです。

そして彼の案内で、明るくなった小川のほとりに行くと、なんと!そこは蝶の楽園でした!数え切れないほどの色とりどりの様々な蝶が静かに河原の湿ったところで水を飲んでいるではありませんか。

私はこの時ほど多くの蝶を見た事はありません。その日は午前中だけで私のこれまで日本で取ったであろう昆虫の数に匹敵するくらいの種類の蝶を採集したのです。同じ種類を何匹もとっても仕様がないので一種類一匹だけを採集したのですが・・・。

私が興奮して喜々として取っているのを見て、友人も一度捕まえてみたいというので、網を貸してやりました。ところが、どうも生まれて初めて昆虫採集をするようで、それこそ子供のように大喜びで蝶やとんぼを追いかけていました。

しまいには上ばかり見上げて足元に注意せずに必死に蝶を追いかけるので草の茂みから崖下まで落ちていくほどでした。幸い怪我がなくてよかったのですが、その姿を見て本当に台湾では虫取りなど誰もしないんだなあと納得したものです。

写真の標本はほんの一部です。大部分の標本は台湾での管理が悪かったのでアブラムシに食べられてなくなってしまいました。この中には日本にいる種類と同じ物もありますが、何種類かは台湾独自の蝶です。
「ツマ紅蝶」は日本にもいますがこんなに大きいのは見た事がありませんでした。

今残っているのはこの標本一つと思い出だけですが、今度は出来たら1週間ほど泊りがけでゆっくり虫取りをしたいなあと思います。ちゃんとした網と道具を持って・・・。  <ページトップへ>

26・WBC世界一に・王ジャパン!

第1回、国別ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)大会で日本が世界一になりました。本当にうれしいです!こんなに興奮したのも久しぶりでした。
当初のアジア予選ではあまり関心がなかったのですが、韓国によもやの敗戦の2位で、アメリカの2次リーグに上がった頃から、俄然面白くなってきましたね。

特にアメリカとの戦いでタッチアップの事で審判の誤審騒ぎは、いやが上にも興奮を掻き立ててくれました。

また、反日感情剥き出しの韓国との一戦も、冷静な日本選手たちを奮い立ててくれました。しかも残念な事に韓国に負けて、決勝リーグは絶望的な窮地に落とされたのに「メキシコ」チームがアメリカを倒してくれて、日本は奇跡的に生き残れたわけです。

これだけでも充分ハラハラ・ドキドキさせてくれたのに、決勝リーグでは復讐の鬼と化した「韓国チーム」をぐうの音も出ない「完封」でシャットアウトしてくれて、多くの日本人の溜飲をさげてくれました。(我々はスポーツを通じて気持ち良く試合をしたいだけなのに、韓国中国はなぜすぐに政治問題、歴史問題を持ち込んでくるんでしょうか?もういいかげんにしてくれと言いたい。

そして昨日のキューバとの決勝戦。今まで大きく負け越していた強豪キューバとの戦いは本当に手に汗を握るいい戦いでした。きわどい判定にもお互い声を荒げて言い争う場面もなく紳士的に熱戦が繰り広げられて、見ていても気持ちのいい戦いでした。

8回の裏に一点差まで詰め寄られた時は正直いって、もうだめかとも思いましたが、イチロー、松中が頑張ってくれて、今大会の「ラッキーボーイ」福留のヒットなどで4点も引き離しやっと勝利を得る事が出来ました。

この大会では、アメリカなどの高給のメジャーリーガーで固めた富豪軍団ではなく、若さとファイトあふれる選手を適材適所に配置した日本のスモール野球が世界を制したということの意義が大きかったですね。ホームランの数は少なかったけどヒットをこつこつと重ねていった結果この栄冠をつかんだのです。これからはアメリカも日本の野球を見る目が変わる事でしょう。

最後に王監督の人望の厚さにも感服しました。アメリカとの一戦で誤審をした審判に冷静な態度でしっかりと抗議していたのを見て、王選手の人間の大きさを感じたものです。大人の風格すらありました。さすがは世界のホームラン王です。

また、個人主義で冷静すぎる男だと思っていた、「イチロー」が人が変わったように熱くチームを率いてくれてムードを高めてくれた事は計り知れない功績がありました。

優勝会見でイチローは、・・・今までの野球人生で最高の日です・・・という言葉にあらわされている様に、個人記録のことごとくを手に入れたイチローをしてこう言わしめたチーム一丸となって手にしたこの優勝は何物にも代え難い感激だったのでしょう。

最後に、「この素晴らしい栄冠を獲った喜びを味わったとたん、もうこのチームメイトとは2度と一緒にゲームを出来ないのだ、という寂しさも同時に感じました・・・・」という言葉にイチローの人間的な温かさを感じこちらも目頭が熱くなりました。

このイチローを精神的支柱として死闘を繰り広げてくれた選手のみなさん、おめでとう!そしてありがとう!と言いたいです。昨日から、スポーツニュースを何度も何度も見て、また優勝の喜びをかみしめています。

(去年亡くなったイチローの師匠、元オリックス監督、仰木氏がお元気だったらどれほど、喜ばれた事でしょう・・・ふとそんなことも思い浮かべました)06・03・22<ページトップへ>

27・「MOTTAINAI」が地球を救う!

先日テレビの「世界一受けたい授業」という番組で、2004年ノーベル平和賞を受けた、アフリカ、ケニヤ共和国環境副大臣の「ワンガリ・マータイ」女史の公演を聞いてとても感銘を受けました。

彼女はケニヤの砂漠化を防ぐ為に1977年にたった7本から植林をはじめ、やがてその運動がアフリカ各国に広がり現在まで約3000万本もの植樹を成功させたと言う立派な女性です。

これらの環境保護活動とケニヤの民主化に努めた業績が評価されて2004年のノーベル平和賞が授与されたのです。

彼女はまた、日本に来て日本の物を大事にする心を表す”もったいない”という言葉をはじめて聞いてこれこそ今の地球には大事な事ではないのだろうかと思い国連でも演説して全世界に”MOTTAINAI”の言葉を広めようと運動しています。

今世界に必要なのは”3R”すなわちReduce・・・・使わない、Reuse・・・・使いまわす、Recycle・・・・再利用だと話していました。ところが日本にはたった一言でこれらを言い表す言葉”もったいない”という言葉があるというのです。
普段我々は何の気なしに使っているこの言葉は、全世界どこを探してもこれを翻訳できる言葉がないそうですね。

そう言われても、にわかには信じられないのですが、確かに日本には物を大切にするということを子供の頃から教わってきました。

この世にある全てのものには神が宿っていて敬わなくてはならないとも教えられてきました。昔の人は八百万(やおよろず)の神があらゆるものに宿っていると信じてきました。

だから物を大切にするという気持ちが養われてきたのでしょうね。

この”もったいない”という言葉にはふたつの心があり、一つは”地球の資源に対する尊敬の心”ともう一つはこれを”無駄にしてはいけないという感謝の心”が感じられるそうです。このような感想を外国人に言われるまで、日本人は感じてなかったと思いますが、まさに”目からウロコ”ですね。この言葉がこれほどまで意味の深い言葉だったのかと今更ながら驚きました。

彼女は日本に来てまた新しい発見をしたそうです。一例をあげると、鉛筆が短くなってもまだまだ使えるようにする「鉛筆キャップ」と「水洗トイレ」の大小の区別のあるレバーだそうです。世界中どこを探してもこんなものはないらしいですね。

それと、物を包む「ふろしき」の便利さも全世界に伝えたいすぐれたものだと言っていました。再利用が利き木材資源の節約にも役立つということです。

このように外国人の視点で物を見つめたら、先祖代々伝わってきたものの素晴らしさに気づかせてくれました。外国の真似をするばかりではなく日本独自のこういう精神をもっと見直して、大切にしてゆくべきだと教えられた有意義な講義でした。   06・03・27
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28・携帯電話と手紙

最近は誰でも携帯電話を持っていますね。これほど便利なものはないけど、また嫌なものもありません。
と言うのは、若い人たちがひと時も「携帯電話」を手放さないで、まるで重要なことでもあるかのようにのべつ画面を見つめたり所かまわず大声で話をしている姿を見かけるからです。

どうしてあれほど、常時用事があるのでしょうか?朝から晩まで、歩く時でも、自転車に乗っている時でも、車を運転している時でも話すことがあるのでしょうか?

道を歩いていて、こういう連中とぶつかりそうになったことが幾らでもあります。私たちの時代であのようにものを見ながら歩くのは、英語の単語か歴史年表を暗記する時くらいだったでしょう。

私は携帯電話が嫌いで3年前までは持っていませんでしたが、町に公衆電話がなくなり限界に達したので仕方なく買いました。

最近は電話および携帯メール、、パソコンのメールで気軽に相手に用件を伝える事が出来るので、本当に便利になったのですが、こと人間関係において果たして若い人にいい影響を与えているのだろうか?と大きな疑問があります。

まず、第一に挨拶がまともに出来ない人間に作りあげている、と思うのです。昔の電話だったら友人に連絡するにはまず誰かに挨拶してから電話口に呼んで貰う・・・というステップがありました。携帯だといきなり相手が出るので挨拶もなしにいきなり会話に入っていくので目上の人などに挨拶する必要がありません。これが原因で満足に挨拶できない若者が多いのでしょうか?(よく分かりませんが・・・・。)

そして、私が最も懸念するのは、男女の「お気軽な」付き合いが出来る垣根のなさです。携帯の番号さえ分かれば幾らでも気軽にコンタクトできます。あまりにも簡単過ぎるのではないでしょうか?昼でも夜中でも朝でも、電源が入っていれば見境なしに連絡出来ます。

以前の恋愛に関しては女友達に連絡するのは、至難の業でした、電話番号を上手く聞き出せても、相手の父親や家族の大きな垣根があって、なかなか相手を電話口に出してもらえませんでした。それ相応の理由がなければ取り次いでもらえなかったのです。

電話がダメなら手紙ですが、これがまた文章を考えるのが難しく、書いては破り書いては破りの繰り返しです。

そして挙句の果ては、夜も寝ないで書いた「ラブレター」を投函する前に母親に盗み見されて大恥をかいて叱責を受けたりします。・・・(これは私の経験談でした(汗)

私の場合彼女とデートの約束を取り付けるまで、どれほどの苦労と努力が要ったことでしょうか?今の若い人には想像できないでしょうが自分の持てる頭脳を限界まで駆使して手紙を書いたり電話をしたりで本当に精根尽き果てました。

だからこそ恋人と会えたときの感動が大きいのです。でも今から思うとこの時の苦労が懐かしくまた甘酸っぱい思い出として残っています。それに彼女からの手紙を待ち焦がれる時の心の高鳴りは電話では決して味わえないものです。

先日、放送されて話題になった「愛と死を見つめて」は恋人同士の手紙のやり取りをもとにして作られたドラマですが、あれが携帯メールのやり取りをもとにしたら、あれほど人を感動させたでしょうか?一通一通の手紙に込められた思いは電話でやり取りする言葉の比ではなかったでしょう。(学生時代あの本を読んだとき、「ミコ」と「マコ」の悲恋に号泣したのを思い出します。)

だいぶ本題からそれてしまいました。要するにあまり便利な「携帯電話」に何でもかんでも頼り切っているとお気軽な人間関係になれきってしまいますよ!と言いたいのです。

電話は用件だけでいいのです。写メールも必要ありません。もっともっと本を読み、手紙を書き、写真に頼らずに心の目で物事を見てください! 06・0
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29・みかんの花咲く丘

”人に惚れる”よりその”声に惚れる”ということがありませんか?音楽ではレコードやテレビを通じて歌声を聴くだけですので仕方のないことですね。実際に会ったことがないのでその”歌声”だけで判断するしかありません。だから流行歌手に群がるファンの人たちもみんなその”歌声”に惚れているんですね。

さて、私は童謡の中で「みかんの花咲く丘」が一番好きです。今はもう成人している甥っ子が赤ちゃんの時に買ってあげたLPレコードの童謡集の中にこの曲が入っていました。そしてこの曲を聴いたとたん、歌っている歌手の声に”惚れて”しまったのです。

まさしく一目ぼれというのでしょうか、”一聴きぼれ”というべきでしょうか、本当に美しい声だと思いました。高音はのびやかに透き通っていて、中低音はまろやかな膨らみがあり一音一音に感情がこもっていてこの懐かしい歌に一層の表情を加えていました。

ジャケットを見ると、歌・中野慶子と書いてありました。どんな人なのだろうか?そしてまたどんなに美しい人なのだろうかと勝手に想像していました。
そうして20数年経ってしまいましたが、最近インターネットで検索したら、何と彼女は「NHK歌のお姉さんの第2代目」だったのです。

初代が真理ヨシコで2代目は1961〜64年まで歌のお姉さんをしていたということでした。全く知りませんでした。そうすると今では相当なお歳ですね。

60年代はまだビデオもないし、再放送もないので中学生だった私がこんな番組を見れる訳もなかったの知らないはずです。

今でもこのレコードを聴くと、あまりにも美しい歌声にうっとりした若いときの気持ちに戻ります。甥に買ってあげたレコードでこの美しい歌声を聴いてからというもの、こんな歌声の女性と出会いたいものだとずっと思っていました。(結局ははかない夢でしたが・・・・。)

ところで、 この戦後初のラジオ歌謡のヒット曲「みかんの花の咲く丘」という歌は、優雅なワルツのリズムに乗って、みかん畑から明るい海を臨むような美しい情景が頭の中にいっぱいに広がりうっとりとしてしまいます。

この歌が戦後の暗い世の中に、明るい希望の光を投げかけただろうとは実感できます。聴くたびにワルツのリズムに乗って淡い郷愁を感じさせる詩情あふれる歌詞が心にしみわたります。

終戦直後の昭和21年の9月に発表されたこの歌は、童謡歌手、川田正子の可愛い歌声とともに大ヒットしたという記録が残っています。NHKのラジオ歌謡番組の戦後初のヒット曲だったのです。

敗戦日本の暗い世相を全く感じさせない明るい歌詞と、優雅なワルツのリズムが荒んでいた人々の心に素直に飛び込んできたのでしょう。本当に心に残る美しい歌です。因みに作詞は静岡出身の加藤省吾で作曲は数々の童謡を作っていた海沼実です。(写真は
ソニー盤で歌手は違います) 06・04・20     《ページトップへ戻る》

30・ガラス細工のような”平和

このところのニュースで、とても気になる事があります。かねてからもめている日韓との竹島問題です。日本がとうとう、その竹島周辺の海域の調査を始めるという事で韓国政府はこの日本の測量船の侵入を防ぐ為に強硬な手段も辞さないと発表してきました。こんな中、調査船が拿捕されたり、銃撃を受けたりすると、このことがきっかけで取り返しのつかない事態にもなりかねません。

そもそも、この竹島は日本領であったところに日本政府が放置したために韓国が一方的に侵入して、今では駐屯部隊まで置いてしまっています。

50年代に李承晩大統領が一方的に領有を主張し、日本の国際法廷への共同提訴で司法の判断で決めようとする提案にも全く耳を傾けずそのまま実効支配を続けています。まるで「やくざ」のような振る舞いですが、これを長い間、指をくわえて座視していた日本政府の責任も重いと思います。
結局は外交手段で決着をつけようと棚上げ状態になっていましたが、韓国政府はことあるごとにこのことに火をつけ油をそそぎこみ政権の維持の道具に使ってきました。

今までの首相なら、土下座外交で事なきを得ていましたが対アジア外交には強行に主張し続ける小泉総理は今までのようには行かず、問題は深刻になりつつあります。

この他、日中間の尖閣諸島問題や、ガス油田問題でも取り返しのつかないところまで問題がこじれつつあります。これら両国との関係は、こうなる前に日本政府は態度をはっきりさせて、対処していればここまで、好き放題にされなかったのでしょうが(今更それを言っても仕方がありませんが)。中国も韓国も軍事的に日本を凌駕するところまで来てしまったので、この軍事力をたてに強硬手段で打って出ないとも限りません。

このように反日を国是としている3国に囲まれた日本は、本当に後何十年あるいはそれ以上待たなければ、普通の付き合いが出来ないのでしょうか。先の戦争の被害をことさらに声高に主張し、小学校から子供たちに繰り返し繰り返し反日教育をし恨みを植え付けるばかりで、まともな人間に育つでしょうか?そのくせ日本の教科書の記述までクレームをつけるありさまです。もしこの行為が正しいのであれば、日本も中国、朝鮮の教科書にもクレームをつけていいはずです。

また韓国、中国の抗議で日本の国旗や首相の写真を焼く行為はどういうことでしょうか。あまりにも大人気ない行為ではないでしょうか?
私にも在日韓国・中国人の友人は何人かいます。でもその人たちの心の中にはあれほどの日本に対する「恨み」が渦巻いているのかと思うと(たとえなかったとしても)付き合うのを躊躇してしまいます。

あれほどの憤怒で凝り固まった人たちは理性的に考える事は出来ないだろうと思われます。こんな状態のところに日本も冷静さを失って銃撃戦でも起こると大変な事になるかも知れません。

気楽なブログを書いたり、ホームページを書いたりして自由を謳歌している今の日本の平和もこんなに際どいところで何とか踏みとどまっているのかと思うと背筋が寒くなる思いです。

どんな事があっても、いかなる国とも軍事的に衝突してはなりません。戦争をしてはどちらの国も想像を絶する被害が出ます。そのためには政治家及び外交官はあらゆる知恵を絞って平和的に解決してもらいたいと心から願うばかりです。

平和というものはもろいものでまるでガラス細工のようなものです。だからこそ大切に壊れないように扱わなければなりません。最近のニュースを見ていてつくづく隣国問題は難しいなあと思いました。 06・04・21   <ページトップへ>

31・PTSD

PTSDとは「心的外傷」と訳され、恐ろしいこと、悲惨なこと、悲しいこと等ネガティブな状況を経験して、それが原因で心身が病気になると言うことです。「トラウマ」と最近ではよく言われますね。 

昔の出来事で、もう忘れていたと思っていたのにある日突然思い出し冷や汗が出るという、治療の難しい心の病気です。このあいだの神戸大地震では今だにこの状態の人が数多くいるということを聞きました。

また4月25日でちょうど1年になりますが、JR西日本・尼崎駅の直前で脱線転覆して107名もの死者を出した大惨事で、奇跡的に助かった人たちも、未だに体と心の後遺症に悩んでいると聞きました。あれだけの大事故です、どれだけショックを受けたか我々第3者には想像出来ないほどでしょう。

これに比べたら些細な事ですが、私にもこの「トラウマ」があります。多感な少年時代のことなので未だに嫌な思い出として残っています。

それは・・・・中学3年の二学期、夏休みが終わり、これから高校入試に向けて最終勉強に励もうと心弾ませて教室に入った途端、物凄い状態に心臓が飛び出すほど驚きました。

教室中の机、椅子が全てひっくり返ってまるで大地震の後のようになっていたからです。
実はその日、転校生があったのです。

何処かの少年院から転校してきた新入生に、挨拶しておこうと元からの番町グループが何人かで迎え撃って乱闘した後だったのでした。その日が初登校で顔見世になるはずだったのですが、それとは知らず意気揚揚と登校した我々はこの状況を見て心の底から震え上がったものです。

同級生とは思えない老けた顔をした体格もレスラーのように大きいこの転校生は、すぐに元の番町グループを制して、新しい学校の暴力ボスとして君臨するまでには何日もかかりませんでした。

この日から、私たちの苦難の日々が始まりました。お金を恐喝されたり、殴られる者が続発しました。ある日あまりのひどさに先生が注意をしところ、懐にひそませていた「ドス」を抜いて教壇の木の机に、すごんで突き刺した時は心臓がちぢむ思いでした。

泣かされた女の先生は数知れず、男の先生もあまりの怖さに注意すら出来ない状態でした。ただ一人、保証人になっていた担任の先生のことのみ聞くだけです。楽しいはずの修学旅行も「夜は誰も寝させない!」と言って、夜中に手下数人と各部屋の窓から忍び込んできて、大暴れする始末です。

その頃は学校も荒れ果てて、子分を数多く引き連れてまるで暴力映画を地で行く状態でした。

大人しい草食動物が集う平和な楽園に一匹凶暴な猛獣が入り込んだのです。それはそれは恐ろしい何ヶ月だったでしょう。クラスの調和も崩れ、一日も早く卒業したいと願う日々でした。

            **********

今でもこの時のトラウマでしょうか?学校で不良に取り囲まれている夢を見て起きれば汗びっしょりのことがあります。もうすっかり忘れているはずなのにふと、この恐怖が頭をもたげてきます。
その男は卒業を待たずにひどい暴力事件を起してまた元のところに逆戻りしたという事ですが、早く忘れたいものです。

教育現場では、不良にも人権があり、更正の機会を与えられるべきだという原則でしょうが、普通の真面目な学生の影響は考えなかったのでしょうか。

最近でも何かというと、差別をなくして平等平等、子供にも人権がありむやみに叱ったり注意は出来ないと識者は言います。
加害者の人権ばかり強調されて、被害者の人権は無視される。”こんな状態ばかりの事件が多すぎます。差別は絶対許されるべきではありませんが、区別することは必要です。大人と子供、男と女、親と子、教師と生徒、全てきちんと区別するべきです。今の危機的状況はこの区別がはっきりしないから起こってきたのです。

こうした、状況で有ればこそ大人がしっかりとして、家庭でも社会でも学校でも若者と接していってもらいたいものです。
自分の経験からこの事を声を大にして言いたいです。06・04・22

人生で最も楽しいはずの中学生時代が台無しになり、誰にこのつぐないをしてもらえればいいのでしょうか?お陰でこの学年の同窓会は一度もしたことがありません。   <ページトップへ>

32・アジアの歌姫・テレサ・テン

もうすぐ5月8日になります。11年前のこの日、私の敬愛する歌姫テレサ・テンが亡くなった日です。
1974年頃「空港」という曲で一躍有名になり、私もいい曲だなあと思うだけで、彼女が台湾人で既にアジアでは有名な歌手だったという事は、当時は全く知りませんでした。

ではなぜテレサの歌声に惚れ込んでしまってファンになってしまったのかと言うと、20代の終わり頃にある事情で台湾で働くという事になってからなのです。

当時、昼間はデザイン会社で働き夜は言語学校で中国語を勉強するという生活が始まりましたが、初めての外国で一人生活すると、ご多分に漏れず私も「ホームシック」に罹ってしまったのです。

寝ても起きても日本のことが思われ、和食が恋しくなり、しまいには日本の冬のあの冷たい風までが恋しくなる始末でした。何しろ台湾は亜熱帯で真冬でも20度を下回る事が無いくらいですから・・・。
安月給ではクーラー付きの家など借りれるはずもなく、全く熱さとの戦いの毎日でした。

ブラジル移民の日本人が日本のことが恋しくて、日本人以上に日本的になるという事を聞いたことがありますが、短い滞在期間でしたが私の場合も全く同じ状態でした。

とにかく日本の文字が恋しくなり日本の本を読みたさのために、台北にある古本屋を巡りついに、真っ黒に手垢で汚れた「文芸春秋」を探し出した時などは、宝物を探し出したような気がしたものです。
今では台北のどこにでも日本の本を売っていますが20数年前は、殆んど無かったのです。 

こんなある日、テレサ・テンの歌う日本の演歌のLPを見つけました。星影のワルツ、北国の春などの歌をきれいな日本語で歌っているのです。これを聴いた途端私の枯れ切っていた心に一滴の水が沁みわたったような気がしたものです。日本人以上に情感のこもった美しい日本語とあの優しい歌声が、疲れていた私を頭から足の先まで癒してくれました。

それ以来今に至るまでずっとテレサ・テンのファンです。当時は毎日毎日レコードがすり減るほど聴いたものです。あの愁いを含んだ優しい歌声は日本語であれ中国語であれ、英語、台湾語、広東語(香港語)、どんな国の言葉でも素晴らしい表現力です。

特に中国語の歌唱は他の語の言語よりも気持ちがこもっていて、素直な感動を与えてくれます。
私も勉強の甲斐があって少しは中国語が分かるようになったので、それ以後はテレサの中国語の歌も聴く様になりました。

台湾オリジナルの「小城故事(小さな町の物語)」(聴覚障害者の恋愛を描いた心温まる映画の主題歌で有名になりました)などは中国情緒たっぷりの美しい曲です。

そして私が最も好きな曲は「君在前哨(あなたは前線に)」という歌です。軍隊を慰問した時に歌って、大きな話題になり台湾人の誰でも親しんでいるのがこの曲です。

この曲の歌詞を聴いていると若い人の純真がこれほどまで切々と語られている簡潔な詩は無く、またテレサ・テンの美しい透き通るような歌唱で、感動がこみ上げてきます。

私はこの曲を聴くとつい目頭が熱くなるほどです。テレサ・テンを代表する名曲だと思います。
(誰の思いも同じらしく、台北郊外にあるお墓に代表曲10曲がセットされていて、ボタンを押すと好きな曲が流れるようになっているそうですが、この曲もその中の1曲です。)

台湾は皆兵制になっていて高校を卒業すると3年間は軍隊に入らなければなりません。軍事大国を近隣に持つ、その危機感は日本の比ではありません。

今でこそ民主国家として歩み始めている台湾ですが、これらの軍事的な脅威が多くの若者の心の奥深くに暗い影を投げかけている事は確かです。今の平和の時もいつ戦乱の世になるかわからないという漠然とした不安は若い恋人同士は敏感に感じるのでしょう。

この歌のような感情は自分たちと共通の切実な想いなのかも知れません。今でもテレサ・テンの代表曲として親しまれています。

・・・・・アジアで唯一の親日国家「台湾」の前途に光あれ!と願うのは私だけではないでしょう。・・・・・

最後にこの歌の訳詩を紹介しましょう。本来なら中国語で聴いていただきたいくらいです。なんと言ってもテレサ・テンの歌は原語で聴いて欲しいものですね。日本語の歌の何倍にも感銘が深くなります。

今元気だったら53歳。今までの可愛い雰囲気の曲からはまた違った、新しい展開が有っただろうに、本当に残念でなりません。


   君在前哨 (あなたは前線に)

 今日  私の思いをあなたに送る
     あなたの暖かい思いやり  ありがとう
 前線にあなたがいて  私を守ってくれる
  あなたのために  私は自分を大切にする

 時々私は  白い雲に聞いてみる
 青い空にも  頼んでみる
 あなたに  よろしくと

今日  私の思いをあなたに送る
    あなたの暖かい思いやり  ありがとう
 前線にあなたがいて  私を守ってくれる
  あなたのために  私は自分を大切にする



2018年にパソコン復帰した際にYoutube で発見しました。
テレサ・テンの歌の中で私の最も好きな歌です。

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33・テレサ・テン その2

今日は5月8日です。1995年の5月8日にテレサ・テンは42歳の若さで亡くなりました。
日本では皆さんご存知のように「時の流れのままに」「つぐない」「愛人」などの歌謡曲で有名ですが、故郷台湾や香港、シンガポールなどでは日本に来る前からもう既に、最高の人気歌手だったのです。

来日当時有名ではなかったので、後の日本での活躍の陰には、バラエティショーの出演や、意にそぐわない歌謡曲の吹込みなど彼女の実力からして不本意な事も多かった事でしょう。

でもそういう事にもめげずに彼女の吹き込んでくれた歌謡曲は全て、我々日本人の予想以上に立派なものでした。

テレサ・テンは日本語のもっている、ニュアンスを見事に表現して、これを日本の聴衆に一つも違和感なしに感動させてくれる語学と歌の才能は目を見張らせるものがありました。

そして我々日本人が知らないテレサ・テンの一面として、忘れてはならないのは、東南アジアの中国人ネットワークが彼女を支えたという事です。華僑としてアジア中に散らばった中国系移民たちが第2次大戦後の落ち着きつつあるアジアの中国系社会の共通の最初のスターとしてテレサを歓迎したのでしょう。それが証拠にテレサはタイ、マレーシア、インドネシア、フィリピンなどを度々訪問しています。

こうして、アジア全体を行き来していたテレサにとって1989年に起こった、中国の天安門事件は最も心を痛めた出来事でしょう。あの事件のあと、自分の歌手生命をかけて香港での抗議の集会に出席した事でその事が理解できます。中国人社会の要の中国本国が民主化するかどうかの瀬戸際で起こった、あの悲惨な事件は彼女を失意のどん底に落とした事は想像に難くありません。

天安門事件が起こる以前から、中国大陸ではテレサ・テンの歌がブルジュアかぶれした共産主義には敵対する歌として禁止されたにもかかわらず、民衆は隠れて聴いたそうです。当時、「昼間はケ(小平)の演説を聞き、夜は隠れてケ(麗君)を聴く」と民衆の間で比喩された話は有名でした。

テレサの両親の故郷中国が市場経済を導入して緩やかに、資本主義社会にその歩みを踏み入れようとしている現在こそ、歌手テレサ・テンの永年の活動が花開くベき時だったはずなのに、早すぎる死は、全く残念の一語に尽きます。

日本では一歌謡曲歌手としてだけの、彼女ですが国外(特にアジア)では中国系の人々のアイデンティティのきずなであったのでしょう。死亡してからもいまだにその人気は衰えずCDショップの店先ではどこでも彼女のあの笑顔を見る事が出来ます。

テレサ・テン メモリアルベスト-永遠の歌姫- テレサ・テン メモリアルベスト-永遠の歌姫-
テレサ・テン

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最後に彼女の代表曲「甜蜜蜜(ティエン・ミー・ミー)」を紹介します。それこそ甘い歌声にまるで夢の中をただようような美しい曲です。

     甜蜜蜜(蜜のように甘く)

  とても甘い あなたの笑顔はとても甘い
  まるで春風の中で咲く花のように
  どこで どこで会ったのかしら
  あなたの笑顔はこんなに知っているのに
  ちょっと思い出せないわ
   ああ 夢の中かしら・・・

  夢の中であなたに会って
  甘い笑顔を見せてくれたのね

  あなたよ あなたよ
  夢の中であったのはあなただわ
  どこで どこで会ったのかしら
  あなたの笑顔はこんなに知っているのに
  ちょっと思い出せないわ
   ああ 夢の中かしら・・・

         (5月8日記)  <ページトップへ>



34・お母さんの歌

今年も「5月14日・母の日」が来ますね。小さい子供にとってはお母さんに感謝の思いをカーネーションの花に添えて送る大切な日です。
このお母さんの歌は何曲かあります。お父さんに比べて遥かに多いのがお母さんの歌です。(お父さんとしてはちょっとさびしいですが)

ところで、つい最近 森・森コンビといって演歌界のおしどり夫婦といわれた森進一、森昌子ご夫妻が離婚されましたね。私は芸能記者ではないのでこの件に関しては触れませんが、演歌歌手として天才的な歌唱力を持つ二人がいろいろ事情があったのでしょうが別れたという言う事は残念というしかありません。

襟裳岬、おふくろさん、などの情感あふれる歌でヒットをつぎつぎと飛ばした演歌界の大御所・森進一は独特の声と表現力で多くのファンを持っています。私もテレビで彼の「うさぎ」という曲を聴いて、すっかり感動してしまいました。

彼の貧しかった子供時代の思い出を綴ったかのようなお母さんと子供たちの思い出の歌に止めどもなく涙があふれたのです。

歌の内容は・・・
小学校の夏休みに事情で夜逃げ同然に故郷を離れなければならなくなった母子が港に向かう道すがら、突然学校で飼っているうさぎの「餌やりの当番」になっていたことを男の子が思い出す。もしこれを忘れれば、かわいいうさぎたちが飢え死にするかもしれない・・・でも学校に帰れば出航の時間に間に合わず、次の船まで気の遠くなる時間を待たねばならない。・・・・

こういう状況でもお母さんはやさしい顔で学校に戻ることを許すのです。男の子は汗だくになって走って学校に行き自分を待っているうさぎたちに餌をやる。うさぎたちは自分の差し出す餌に嬉々として飛びつく・・・・。そしてまた田舎の道を必死にとって返すと、そこには優しい顔で迎えてくれるお母さんがいてくれる。・・・

ただそれだけのことなのですがこのときの情景を子供の目を通しての思い出を切々と歌い上げる歌は、もう「演歌」という範囲を超えた母をたたえる美しい音楽になっていました。歌謡曲にしては長編で確か6〜7分はあるでしょうか。曲名は「うさぎ」となっていますが、紛れもなく「お母さんの歌」です。

この曲をはじめてテレビで聴いたときは、まるで森進一の子供時代の苦難の人生を垣間見たようで涙が止まりませんでした。私はこの歌が彼の実体験に基づくものかは知りませんが、この歌を歌うときの彼の表情できっと事実だったんだなあと思わずにはいられませんでした。

実生活では離婚という結論を出されたのですが、この歌のように優しいお母さんに育てられたのです、きっと苦しいことを乗り越えていかれると信じています。

私は取り立てて演歌のファンではありませんが、いい曲に出会うと嬉しくなります。クラシックのように外国生まれではなく、身近な生活観や恋愛観に思いのほか感動することが多くあります。本当に音楽って素晴らしいですね。(敬称は省略させていただきました)

06・05・12・母の日を目前にして  <ページトップへ>

35・小説と映画

映画の原作のほとんどは小説ですね。この小説を元にして脚本家が脚色し俳優が演じその他多くのスタッフが一つの映画を作り上げてゆきます。
私は映画ファンでいろんな映画を見てきましたが、小説を読んでから映画を見ると、ほとんどは失望してしまいます。

自分のイメージと全く違うからです。景色一つとっても自分の最も美しいと思っている景色と監督が実際に映像化した景色とはイメージに違いがあるのは当たり前です。また一番違和感のあるのは主人公のイメージが違うのが多いことです。映像的には素晴らしく、初めて見る映画なら感動はしたでしょうが、小説で感銘を受けていた作品の場合たいていはがっかりしてしまいます。

最近ではH・GウェルズのSF小説「タイムマシン」を映画化したアメリカ映画を見ましたが、期待が大きかっただけにがっかりしました。もし小説を読まずに見ていたら感動したかも知れませんが、見るたびに原作ではこんなではないはずだと小説とのギャップばかりを探してしまい映画に没頭できませんでした。

この他ウェルズの作品でいえば、最近のトム・クルーズ主演の「宇宙戦争」もがっかりしましたし、昔見た「モロー博士の島」「透明人間」も小説の方がはるかに感銘が深かったです。これらSFの創始者ウェルズの小説を高校生の時、読んだのですが「タイム・マシン」を読み終えたあと、あまりにも大きな感動のため数週間は頭がおかしくなったかと思うほどのショックを受けました。

それまでは夏目漱石、太宰治など私小説的な市井の出来事を描いた作品ばかり読んでいたので、人間の頭でこれほどまでの想像を働かせて物語が書けるものだということに驚いたのです。それまでは日本の小説ばかりだったのですが、この「タイムマシン」を読んだあとは外国のいろんなジャンルの小説も読み漁りました。自分の知らない世界を知るという知識欲に目覚めたのです。(このお陰で、勉強が疎かになり学力はだいぶ落ちましたが・・・・)
とにかく映画を見るなら原作を知らないで、先入観なしで見るに限りますね。本で読んでいると頭の中ではもう既に、一篇の”最高の映画”が出来上がっているからです。

先日ソビエト時代のSF作家スタニスワフ・レム原作の「惑星ソラリス」という映画も見ました。

この映画は1973年にソビエトの鬼才”タルコフスキー監督”が映画化していますが、今回はアメリカのジェームス・キャメロン、スティーブン・ソダーバーグのアカデミー賞コンビが製作・監督した話題の映画でした。CGを使用して壮大な宇宙空間を作り上げていた美しい映像には感動したのですが、73年のタルコフスキー監督の詩情あふれる哲学的な出来にははるかに及ばない退屈な作品でした。

音楽に例えてお話すると、ベートーベンの遺したスケッチを元にして、交響曲第10番を作ったのと同じで、幾ら素材が同じでも同じレベルに到達するには並の才能では無理でしょうね。この交響曲10番は全くの駄作でした。これらの映画を見ていてそんな事を考えてしまいました。

最後に、初めてこれら映画を見られる方に申しておきますが、素晴らしい映画であることは全く異存がありません。ただ原作を読んだものとしては自分の頭にある「イメージ」と映画が違いすぎるということだけなのです。ですから先入観なしにこれら映画をどんどんご覧になってください。06・05・13  <ページトップへ>

36・お母さんの歌・2

森進一の「おふくろさん」の歌も素晴らしいのですが。私は森昌子の歌う「おかあさん」も大好きです。
この歌は、毎年、母の日になると商店街やスーパーなどあちこちで耳にしますね。

昔はこの曲を聴いても、母の日のセールス用の音楽だなあと思っていただけでした。歌っている森昌子もたしかこの曲を録音したのは18歳くらいの時ではなかったでしょうか。

歌詞の「〜やせたみたいね、お母さん・・・・・」といわれてもこの年代のお母さんはまだ若くこの歌詞にはそぐわないなあと思ったものです。2番の歌詞「びっくりしたでしょ、お母さん、思わず起こしてしまったの・・・二度とその目が開かないようで、寝顔を見てたら泣けたのよ・・・」というところなど、大げさな歌詞だなあと思っていたくらいです。18や20歳の娘のおかあさんならまだ40代か50代でしょ。全くこの歌詞はそぐわないなと思いました。私の若い頃はこの歌の印象はそれくらいでした。

でも中年になった今、この歌の歌詞が真実味をおって心を揺さぶります。
何年前だったか忘れましたが、(まだ森昌子さんが引退する前でした)NHK/FMの番組で当時のオペラ歌手の伊藤京子さんとのジョイント・コンサートの放送がありました。そのときのやり取りを今でもはっきりと覚えていますが、伊藤京子さんが「この”おかあさん”の歌は私ならこう歌います」といって、美しい声で感情込めて歌ってくれたのです。

それはそれは気持ちのこもった感動的な歌唱でした。そしてまた「昌子ちゃんが私くらいの年になったら、この歌の本当の意味がわかるでしょう」とも言っていたのを覚えています。

私が小学生の頃
に若くして夫と死に別れた私の母は、人には言えない苦労をして私たち3人の子供を育ててくれました。時には厳しくときは優しく、決して気弱なところを見せなかった母。私が反抗したときなどは庭の物陰にかくれて一人で泣いていたうしろ姿を決して忘れません。

今、体も小さくなり足もめっきり弱くなった母、この「おかあさんのうた」を聴くたびあのときのFMラジオで聞いた伊藤京子さんの言葉が心の底から理解できます。

寝顔を見ていて、もう目が開かないのだろうかとドキッとする瞬間がありますし、起こしてしまって優しく笑った顔を見て安心するこの頃です。3番の歌詞、「感謝をしてます おかあさん、たまには肩もみしましょうね・・・・・長生きしてねいつまでも、きれいな空です、おかあさん〜」・・・・今そんな気持ちでいっぱいです。

森昌子さんも今だったら、この歌はまた違った気持ちで歌われることでしょう。機会があればまた透き通った美しい歌声でこの曲を聴いてみたいものです。  06・5・14 母の日                   <ページトップへ>

37・メタボリック・シンドローム

みなさん「メタボリック・シンドローム」をご存知ですか。アメリカ映画の題名ではありません。

医学用語では「代謝症候群」というのだそうです。生活習慣病で高脂血症、高血圧、糖尿病の中で2つ当てはまればこの病気の可能性が高いという事です。この病気をほうっておけば心臓病、脳梗塞の危険性が増大するという恐ろしい病気です。

40歳以上の人の3人にひとりはこの「メタボリック症候群」であるという統計も出ているそうです。
たいていは運動不足による肥満が原因で、男性ならウェストが85センチ、女性なら90センチ以上が基準となっています。でも厄介な事にやせていても、高脂血症や血糖値が高いという例外もあるということでスマートだからといって安心だとはいきませんね。

ところで、私もウェストが85センチ以上あり、以前から血糖値も高いと医者に言われていたので、先月から毎日、食事制限をし運動をするように努めています。

万歩計をつけて、一日1万歩を目標に歩くようにしています。このせいか、今では体重が3キロ減り、腰周りも80センチにまで下がり、先日の血液検査では少しですが「血糖値」が下がりました。医者にはこのままだと糖尿病になるよ!と言われたので、初めて真剣に体質改善に努めたのです。

以前だとコーヒーを飲みながら甘いものを食べたり、またトンカツや天ぷらとか餃子やラーメンなど油っこいものばかりを食べていたのを我慢して、今ではほとんどあっさりした和食ばかりです。間食はしません。タバコもよくないというのできっぱりと禁煙もしました。

私も、人並みに長生きがしたいから真剣です。病気で長生きしても辛いので、なるべく健康で楽しく過ごしたいので頑張っています。
”健康な身体に健全な精神が宿る”というように”死ぬ直前まで健康”でいたいものだと思っています。

肥満気味のあなたもくれぐれもお気をつけください!06.05.19 <ページトップへ>

38・現代美術?

いつだったか、テレビで現代美術展の放送を見たのですが、その中で特に印象に残っている作品がありました。それは美術館の壁にネオンサインのようなデジタル表示の数字が何桁も横に並んでいる相当大きな作品でした。

確か日本人の作だったと思いますが、数字は発光ダイオードで光っていました。この数字は時間を100分の一秒まで計れる「ストップ・ウォッチ」のような仕組みにしてありました。題名にはたしか「人間の一生」という風な意味合いのものだったと思います。(だいぶ前だったので詳しい事は忘れましたが・・・。)

ではこの作品は何かというと人の平均寿命を100分の一秒単位で計ってあり、その人の寿命の持ち時間の数字が見てゆく間に少なくなる、ということを表現していたのです。

実際見ているとこの数字が、ダムの水が流れるようにどんどん少なくなって行くのです。5分見ている間に3万も数字が少なくなりました。「命の時間」が視覚的に表され、いかに早くこの時間が過ぎてゆくのか、を実感させるものでした。この作品が「現代美術」といえるか?は大いに疑問なのですが人々に与える衝撃は大きいものでした。

私も見ていてこんなに早く時が過ぎてゆき、死に向かってまっしぐらなのかと改めて考えさせられました。

時々同窓会をしたときに感じるのですがしょっちゅう会っている人ならともかく何年ぶりかで会った人は「老けたなあ」と思うことがあります。自分の姿も同じなのでしょうが毎日鏡で姿を見ているから、老いてゆくことには鈍感になっているのでしょう。

久しぶりで会った人はその老け方が実感として分かるのですね。つらい事ですが、これは避けられない事ですね。この世の中、平等でない事が多いのですがこればかりはお金持ちも貧乏人も王様も庶民も皆一様に年を取ってゆきます。
         

私はこどもの頃からよく「死」を意識しました。父が若くして亡くなったと言う事が一番の理由ですが、私が小さい時分、病弱でよく寝込んでいたということもあるのでしょう。熱に浮かされて眠れない夜など、このまま死ぬんだろうか・・・などと死の恐怖を幼な心に感じた事がありました。

成人してからは交通事故で大怪我をして危うく死にかけたこともあり、「死」とはこんなに身近にあるんだと実感しました。そして親戚や友人の死も多く経験してきたこの歳になると本当に「死」というのがそんなに先のこととは思えない年齢になってきたのです。

体もあちこち「ガタ」がきて病院に行く機会も増えてきました。こういう時にテレビで、この時間が想像を絶するほど早く流れてゆくのを見て衝撃を受けたのです。

私には後どれくらいの時間が残されているのかは知りませんが、もっともっと音楽を聴いたり本を読んだり、楽器を練習したり、語学も勉強したい、そしていい人とも出会いたい・・・今はそんな気持ちでいっぱいです。  06・05・22  <ページトップへ>


アオスジアゲハ蝶/ペイント機能を使って描きました


39・台湾の卒業式に参加する

6月の15日から10日間南国の台湾に行っていました。というのは台湾の大学に留学している娘が17日に卒業するので、式典に出席するために訪れたのです。梅雨の雨が降り続ける日本を後にして、台北に降り立つと、さすがここは亜熱帯とあって32度もあり、もうすでに真夏の天気でした。

私は十数年前から台湾には仕事で何回か来ておりおなじみの国なのですが、久しぶりに来てみてそのかわりようにびっくりすることばかりです。

まず入国の手続きの簡単さです、以前は念入りにチェックをしてなかなか列が短くならなかったのですが、ICチップ入りのパスポートのお陰か、数十秒でOKでした。その後の荷物検査もまったくないのと同じくらいスムーズに終わったのです。ただ「麻薬犬」が一人一人の荷物の匂いを嗅ぎまわっていたのが印象的でした。

以前では日本の電気製品など一つ一つ引っ張り出して、機種によって税金をかけられたのも隔世の感があります。中でも一番うれしいのは短期滞在ならビザが免除されているし何よりも対日感情が良好なのがいいですね。

17日は娘の大学の卒業式に出席しました。朝大学に着くなり、校門の辺りでの異様な人だかりに驚きました。そこでは何軒もの「花屋」が臨時に店を出していました。覗いてみると卒業生の親や下級生、友達たちがお祝いの花束を買っているではありませんか。

私も良くぞ留年もせずにきちんと卒業したと褒めてやりたい気持ちがあったので、ピンク色の薔薇を中心にした花束を作ってもらいました。一束600元でした(約2400円)。講堂で9時から始まった式典は10時半に終わり後は各自学部ごとに同級生が集まってお互いに写真の撮り合いをしていました。大部分の学生は父兄が来ていて学内は数千人の人で溢れかえっていたのです。

日本の卒業式と違う風景は、卒業した本人よりも父兄たちの喜びが大きいようで、一家そろってお祝いに駆けつけるので学内はまるで遊園地のような賑やかな風景になるところが日本とは違うなと思いました。あちこちで後輩たちがが世話になった先輩に感謝の花束を贈る姿を見かけました。

娘に一つも花束がなかったらさびしいなと、心配していましたが、花束で顔が隠れるほどたくさん抱えた姿を見て安心して嬉しくなりました。ホームシックに悩んだり言葉の壁にぶつかって、弱音を吐く時もありましたが、くじけることもなくこうして卒業できたことを褒めてやりたい気持ちでいっぱいになったのです。

娘の姿を見つけて近づいてみると台湾人の同級生に混じって、イタリア、タイ、マレーシア、アフリカ(国の名前は忘れたのですがガーナの北にある国です)などの留学生も集まっていて、人種も違い皮膚の色もちがう若者たちが流暢な中国語で会話をしている姿はとても不思議でまた素晴らしい光景でした。こういう小さな国際交流を通じて相互理解が進めばこれに勝る民間外交はないのでは、と思いました。

今日は彼らの希望と活力に溢れた美しい「瞳」の輝きを見ていたら、過ぎ去った青春時代がよみがえり心が若返えり、私にとっても忘れられない一日になりました。  06・06・28 <ページトップへ>

40・台湾の思い出

卒業式が終ったので、あくる日には友人の案内で中部にある観光地に行きました。「三義」という木の彫刻で有名な山あいの町です。高速道路で台北から2〜3時間ほどのところにあります。

日本統治時代には下駄の材料になる桐をたくさん植えていたので4月には白い花びらが雪のように降るので「4月雪」といわれる絶景が見られるそうです。木の名前は「油桐樹」といってこの木から油もとったという貴重な木だったそうです。そのため森全体がなんともいえない芳香を放っており気分が落ち着くから不思議なものですね。

ここは木彫が有名で木彫博物館があったり、「4月雪」の風景が見られる観光地なので公園の近くにはお土産屋がたくさんありました。そこでは木彫の小さい鳥を買いました。

土産物屋をウロウロして、家族で日本語を話していると近所のお年寄りが話しかけてきて、昔の話を聞かせてくれました。何十年ぶりかで日本語を話したといって懐かしそうにしてくれるのでこちらもうれしくなりました。ここは外国人が行く観光地ではないので日本人が珍しかったのでしょう。

台湾ではこういう場面によく出会います。みんなが日本が大好きだというのがにじみ出ていてこちらが感激することがいっぱいあります。特に私は日本人が行く観光コースをはずれたところばかりに行くのでそういうお年寄りによく会います。朝鮮に比べてはるかに理想的な統治をしていたんだなあと思ったものです。
そのあとこの近くにある日本時代台湾でもっとも海抜の高い地点にあった鉄道の駅を見学に行きました。「勝興駅」という名の駅名です。日本時代は「十六イ分(分と読みます)」という駅だったそうです。ものすごい山の中を開拓して鉄道を開いた当時の台湾を偲びながら訪れました。

着くとそこは両側を山に囲まれた瀟洒な駅で、日本の田舎の無人駅を彷彿とさせる懐かしい風景でした。左の写真はその駅に通じる鉄橋です。
今は既に廃線になっていて観光施設になっていますが、時々は蒸気機関車を走らせるそうです。

また近くにはレンガで作った鉄道の橋「龍騰断橋」があり1926年の大地震で何箇所かくずれてしまい今は6本の橋梁だけが残りローマの遺跡のような雰囲気をかもし出していました。

眺めていても自然と調和していてなんとも言えない感動を覚えました。絵描きだったらきっと絵心をそそられるすばらしい風景だと思います。(右の写真)こうした日本統治時代の古い建物や遺跡を大切にしてくれている台湾人は本当に親日的なのだなあと感じた一日でした。外国人観光客は全く見かけませんでしたが、たくさんの現地の若者が出かけており本当の台湾情緒が味わえる観光地だなあと思いました。

食事はこの地方に多く住む「客家人」の経営するレストランで名物料理を食べましたが、全て塩辛いものでした。なぜこんなに塩辛いのですかと尋ねたところ、長い間経済的に恵まれていなかった「客家人」が少ないおかずでたくさんご飯を食べれるようにおかずが塩辛くなったと言う事でした。料理一つにも民族の歴史が詰まっているのだなあと感動しながら美味しくいただきました。  06・06・29<ページトップへ>

41・台湾の思い出・その2

世界一高いビルが台湾にあるのをご存知ですか?せっかく台湾に来たんだから、世界一高いビルから町を眺めてみようと、みんなでタクシーに乗って繁華街まで出てきました。

ところで、台湾のタクシーの運転の荒いのは有名で、訪れた旅行者は皆一様に驚きます。オートバイとバスで溢れかえる道路を高速で右へ左へとしょっちゅう車線変更するし行き先を言っても返事もしないし、わかっているのかこちらが心配になります。

以前乗ったタクシーなど明らかに違う道を通りわざと遠回りをするので文句をいったら突然怒り出し、わけのわからない所で「降りろ!」といって車から放り出されたことがありました。まあこんなことはめったにないのでしょうが、とにかくタクシーにはこちらが気を使います。

外国人だと知ったらごまかす人がいるので皆様もお気をつけください。(でも、はじめての道だったら遠回りされてもわかりませんね)

今日は問題もなく無事に着いたのですが、とにかくますます車社会になりどこに行っても車とオートバイの洪水でした。人口の割には車が多すぎるし、交通規則を守らないことは日本とは比べ物にならないでしょう。

でもみんなが守らないので割り込まれても平気だし言い争いにもならないのが不思議なところだと思いました。秩序のないところが秩序でしょうか?とにかく不思議な国民性と言えるかも知れませんね。

台北ではこの慢性的な交通渋滞を解決するため地下鉄網の充実に力を注いでいるようですが、遅々として工事が進んでいないのが現状です。駐車場もあまり完備されていないので自家用車で出かける人は駐車場探しにとても苦労します。でも今回、地下鉄にもだいぶ乗りました、全線同じ市営なので乗り継ぎは便利だし、「スルットパス」のプリペイドカードを購入すれば、いちいち切符を買う手間も要りません。(写真は地下鉄のホームです。出来て何年もたっていないのできれいなものでした。)

それにこれは市営バスも全部に使えるのです。以前は回数券になった切符を買って降りる度にバスの運転手に切符に切り込みを入れてもらわなくてはなりませんでした。それに印象的だったのはバスにクーラーがついていて涼しかった事です。昔私が働いていたころはクーラーなどついていなかったので本当にバスに乗るのが辛かったのを覚えています。

さて、本題の世界一高いビル「台北101」には夕方着きました。「バカとけむりは高いところに上がりたがる」の諺のとおり私たちは父娘は高いところが大好きです。

因みに家内は高所恐怖症なので一階の喫茶店で待っているとのことでした。せっかく来たのにもったいないと思いましたが仕方ないですね。強制は出来ません。夕陽とネオンがきれいだと言うので6時ころに着いたのです。展望台までエレベーターが直通で一人350元(1400円)でした。エレベーターは35秒で何の揺れもなくあっという間に390メートルもある展望台まで到着しました。

今話題の「シンドラー製」のエレベーターだったら怖いなあと思っていましたが日本製だそうで安心しました。あまりにも急激に高いところに来たので気圧の変化で耳がツ〜ンとしました。

展望台は360度見渡せてそれこそ、雲の上にいる気分です。遠くの山がかすんで見え、眼下を蟻のような車が行き交う姿を見ると自分がまるでガリバーになったような錯覚になりました。さすが観光地とあって多くのおのぼりさんや外国人観光客でにぎわっていました。その日はあいにく曇っていて見晴らしは良くありませんでしたが、世界一のビルにいるという気分だけで何となくうれしいものでした。 06・06・30 <ページトップへ>

42・台湾のCDショップ事情

世界中のコピー商品であふれていた台湾のCDショップも最近の世界からの「著作権保護法」のお陰で全くコピー商品が店頭から姿を消しました。数年前台湾で日本の歌謡曲、演歌のCDやテレビドラマのDVDを数多く見かけたのですが店頭からすっかりなくなっていました。

そのうえ、CDショップ自体がなくなっており、繁華街ではCDショップが軒を並べていたのですが今回ほとんどがつぶれていました。有名な「タワーレコード」もありませんでした。最近の若い人はコンピューターから直接ダウンロードするそうで店で買うことが減った為だと思われます。

クラシック音楽はどうかと思い店に入りましたが、あまり種類がなくヨーロッパ及び日本のCDがそのまま輸入盤として売っていました。ここで日本盤を割高で買うこともないので眺めるだけでしたが、やはりモーツァルト生誕250年と言う事で「モーツァルト・コーナー」には多くのCDが並べてありました。

ざっと見た感じでは、有名曲は網羅してありましたが、J・Cバッハやホフマイスター、ニールセンやボーンウィリアムスなどの傍系の音楽家の作品は全く見当たりませんでした。台北の一番大きいCDショップでもこんな状態なのです。マンハイム楽派とかバロック以前の音楽や有名でない作曲家の作品のお好きなかたならインターネットで買うしかないでしょうね。

日本でも若い人のCD離れがひどく最近は、コンピューターでダウンロードしてMP3で携帯プレーヤーで楽しんでいる姿が見られます。後数年でCDもレコード盤と同じ運命を辿るのは目に見えています。本当に時代の流れは早いものだと感じる今日この頃です。

私たちの年代はモノーラル・レコードに始まって、ステレオの音のよさに感激して、その後テープレコーダーが普及して、音楽を録音できることに驚きました。大きすぎるテープレコーダーの不便さを解消するため「カセット・テープレコーダー」が発売された時は、この大きさでまともに音楽が録音できるのかと驚いたものです。このころFM放送が充実してきたので、毎週FMの番組表を買って、エアーチェックする毎日でした。

この当時、このFM放送のお陰で新しい曲をどれほど知ったか知れません。「朝のバロック」では聴いたことのない作曲家の音楽を沢山聴かせて貰いました。今、押入れにそのころ録音したテープが山のようにあります。私の家の押入れには、レコードとテープがたくさんありますがもう少ししたら、CDも同じ運命になるのでしょうか。それを思うとちょっとさびしいものがありますね。

今回、台湾のCDショップめぐりで、あまりにも目まぐるしい変化に驚いた次第です。ある面、日本より時代の流れが早いようにも感じました。 06・06・30<ページトップへ>

43・台湾で最も有名な曲〜エリーゼのために
<−−台湾のゴミ事情−−>

6月18日は友人の案内で「タイ料理」を食べに行きました。今まで食べたことがないのでとても楽しみでした。

そこで、駐車場を探してちょうど車が一台通れるくらいの細い道に入ったところ前にゴミ収集車が走っていました。電子音でベートーベンの「エリーゼのために」を大音響で鳴らしながら人が歩くくらいの速度で動いているのにで食わしてしまったのです。狭い道で追い越すわけに行かずしばらくはこの車の後ろをノロノロと着いて行きました。

すると、この音楽を聴いてあちこちからゴミ袋を持った住民が飛び出してくるではありませんか。そしてゴミ収集車の後ろから袋を投げ入れて行くのです。友人に聞くとこうして決まった時間に音楽を流しながら来るので住民はみな待っているそうです。

以前は、街角の決まった場所にゴミを捨てていたのですが、不法投棄や腐敗臭がひどすぎてゴミ集積場の近くの住民が市に抗議したことから、今のようなシステムになったそうです。これなら不法投棄はなくなるし町もキレイになるのでいい方法ですね。(問題は寝たきりのお年寄りとか、障害をもつ人ですね、そんな人のための解決方法もあるのでしょうか?)

こういうわけで「エリーゼのために」の音楽は誰の曲かは知らなくてもゴミ回収の合図だとみんなは知っているので台湾ではいちばん有名な曲でしょうね。

さて、無事駐車場を探し当て車を預けて、「タイ料理」に舌鼓を打ちましたがその味は辛くて酸っぱくて少し甘い不思議な味でした。今まで味わったことのない調味料が入っているのでとても新鮮に感じ、私はいっぺんに「タイ料理」のファンになってしまったのです。

ところで、台湾のゴミ事情は」急激に増える不燃ゴミのため国をあげての改革に取り組み、今では台北などの大都会では分別回収に努めているようです。マンションなど集合住宅では回収箱を設けてその中に分別したゴミを入れてゆくのです。時間は夜の6時から8時と決まっていました。(地域により時間は違っているのでしょう)

一番驚いたのは、夜市の屋台の食べ物屋で食器代わりに使われていた発泡スチロール製のお椀や食器が全て可燃性の紙製に変わった事でした。それにコンビニ、スーパーでのポリエチレン製の袋が有料になったことです。私がコンビニでパン、牛乳、などを買ってレジに持ってゆくと計算して商品をそのまま差し出すのです。袋に入れてくれるものと待っていたら、一枚一元ですと言うのです。

何の事かわからないのでたずねるとお持ち帰り袋が一枚一元だと言う事でした。スーパーでも同じで、今ではみんな買い物は袋持参で行くと言う事でした。日本でもそういう所はありますが、ここまで徹底的に出来るのは、やはり台湾が環境問題を真剣に考えていると言う証拠でしょう。

この調子で、ゴミ問題が解決されれば、悪臭とゴミにあふれた不衛生な都市が東南アジアでも最も清潔な都市になることは確かでしょうね。数年後が楽しみです。

さて、今日ヤフーの記事で、「最も移民したい国は?」というアンケートを台湾人に尋ねたところ日本と答える人が最も多かったと出ていました。今までいつも台湾を訪れるたびに感じたのですが、本当に日本人、日本に関心が高くまた親日的だとする印象があったはずです。以下の記事は6月30日、毎日新聞の記事です。

 【台北・庄司哲也】最も移民したい国は日本――。台湾のビジネス誌「遠見(グローバルビュー)」は29日、台湾全土で実施した住民の世界観に関する調査結果を発表した。全4質問のうち「移民したい国」「立派だと思う国」「旅行したい国」の三つで日本が1位となった。「親日派」とされる台湾人の心情が裏付けられた形だ。

 調査は今年5月に台湾全土で20歳以上の約1000人を対象に実施。一つの質問に3カ国を選んでもらった。「移民したい国」では日本が32.3ポイントで1位となり、米国(29.1ポイント)、カナダ(26.5ポイント)を上回った。「最も立派と思う国」でも日本(47.5ポイント)がトップで、米国(40.3ポイント)に次いで中国(15.8ポイント)が3位となった。「留学したい国」だけが日本は米国に次いで2位だった。同誌は「台湾の人々は日本を入り口にして、世界を見ている」と分析している。 (毎日新聞) - 6月30日10時27分更新

    06・07・01<ページトップへ>

44・台湾で印象に残ったこと

今回、久しぶりに台湾を訪れて、印象に残った事は
まず第一に「町が清潔になった」ということです。以前では夜市のゴミが朝にはまだ残っていて悪臭を放っていたし、道路わきにはタバコ、空き缶などのゴミが散乱していたのに、この度はあまり気になりませんでした。ゴミの不法投棄の罰則が厳しくなったのでしょうか、見違えるほどきれいになっていました。

第二には「違法駐車が少なくなった」ということです。これも駐車違反を民間に任せてすぐに取り締まる事となったので、その成果が表れたのでしょう。以前は車道どころか歩道まで止めていたので、歩くのに邪魔になり、特に車椅子、乳母車などの通行は絶望的でした。今回はまだバイクや屋台が占拠していて歩きづらいのですが以前よりましになったと言うところでしょうか。この部分はまだ改革の余地があると思いますが・・・。

第三には「交通機関の充実」で台北市内でしたらほとんど地下鉄で移動が出来ます。このお陰で町の車、タクシーが少なくなったのでだいぶ交通渋滞が解消されたことでしょう。実際バスに乗っていても以前よりはるかに早く目的地に着きました。仏頂面の運転手のタクシーに乗らなくていいのが何よりも嬉しいことでした。

治安のことは短期旅行では良くわかりませんが、夜遅くまで人があふれているのでつい安心してしまいますが、やはり人通りの少ないところは危険だと言う事です。今回も刺青を入れた若者をよく見かけました。どこの国でもチンピラ、不良はいるもので自分の身は自分で守るしかないでしょうね。

さて、他に印象に残ったのは私がトイレに行った時、(そこでは手洗い場が一つしかなかったのですが、)小学生の子供が北京語で「先用」(お先にどうぞ)と言って譲ってくれた事が印象に残っています。日本では子供からこんな事を言われたことがなかったからです。

またバスに乗ったときも男子学生が席を譲ってくれたのです。私が何も老いぼれて見えたわけではありません。台湾では自分より年上には席を譲ると言う事が当たり前のようです。何回も女の人に席を譲っている光景を見ました。日本ではこんな光景は見たことがないのでとても感動してしまいました。

ついでながら、日本に帰国した時に、空港から電車で帰ったのですが、私たちの席の前に座っていたふたりの女子高校生が大きく股を開いて、ペットボトル入りのお茶をラッパ飲みしているのに遭遇しました。呆れて見ていると彼女たちは「何を見ているんだ」という風にこちらを睨みつけるではありませんか、日本に帰るなりこんな醜悪な若者の姿を見て気分が悪くなった事をお伝えしておきます。  06・07・01<ページトップへ>

45・侯孝賢監督作品のロケ地を訪ねる−悲情城市−

今回の台湾旅行のもう一つの目的は、私の愛して止まない「侯孝賢・監督」の作品の舞台を訪ねることでした。日本でも多くの映画ファンに敬愛されている彼の作品の生まれたところをこの目で見てみたいと思ったのです。

1989年に発表された「悲情城市」はイタリア・ベネチア国際映画祭グランプリを受賞した事で世界的に一躍有名になりそのロケ地となった「九イ分(九分と読みます)」というその昔、金鉱で栄えた町は、連日多くの観光客でにぎわう名所になっています。今でも日本統治時代の町並みが残り、若い人には新鮮な風景であり、お年寄りにはほろ苦い郷愁が漂う町なのでしょうか。

この映画は日本でも上映されたので、ご覧になった方もあると思いますが、1945年の日本の敗戦から、台湾に蒋介石の臨時政府が置かれるまでの4年間の混乱の時代を描いた問題作でした。この作品の発表当時はまだ、このときの大弾圧事件の事をおおっぴらに出来ない頃だったので製作には相当苦労があったということです。

港町キールンに住む大家族を襲った悲劇を淡々と描いたこの作品は当時の人々の苦しみと恐怖がひしひしと感じられる映画でした。日本に長い間統治され、やっと解放されたと思うと、今度は国民党中国の圧制に苦しむ台湾の悲劇がやりきれないほど画面に描かれていて、静かな怒りの映画になっていました。

この映画を見て、どうしてこの悲惨な映画のロケ地になった「九イ分」というところが観光地になったかは理解に苦しむのですが、訪れてみて確かにここには今の台湾には少なくなった昔の日本の姿が色濃く残っていました。坂道の間を民家が軒を並べその多くが観光客目当ての店になっているのを見て、まるで京都のお土産屋を歩いている錯覚に陥りました。

ここには多くの日本人観光客も訪れるようですが、他の近代的なビルの立ち並ぶ大都会には既になくなってしまった昭和の日本を感じる事のできる数少ない観光地だと思いました。

有名な「茶楼」からはるかキールン港が望めるのどかな風景を眺めていると、60年ほど前にこんなひなびた山あいの町にも悲惨な政治弾圧が忍び寄っただなんて信じられないほどでした。06・07・03 <ページトップへ> 
B00008BOFR 悲情城市
トニー・レオン ホウ・シャオシェン チェン・ソンヨン
紀伊國屋書店 2003-04-25

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46・映画のロケ地を訪ねる〜冬冬(トントン)の夏休み

侯孝賢監督の初期の愛すべき秀作です。1983年に朱天文の子供時代をモデルに原作、脚色された作品でした。台湾中部にある苗栗県の銅鑼(トンロー)という町が舞台になっています。

映画のあらすじは・・・台北の小学校を卒業したトントンは妹のティンティンと二人、夏休みを田舎で開業医をしている祖父の家ですごすことになります。母が入院し、父は看病でつきっきりだからです(「となりのトトロ」にも似た設定ですね)。

母方の叔父に付き添われ、台湾中部のトンローまでいくはずが、恋人と同行の叔父は無責任にも彼女の実家にある途中の駅で彼女を見送っているうち列車に乗り遅れ、二人は寂しく目的地トンロー駅に着きます。

しかし、駅前で遊ぶ子供たちとすぐにうちとけ、車で追いついた叔父と、診療所となっている祖父の邸へ……。こうして素晴らしい休暇が始まるのです。原作、脚本の朱天文女史の幼年時代に基づく、ただ郷愁を誘うとか、懐かしさに溢れるとだけ書くのではすまされぬ心温まる秀作でした。

私は83年の映画「坊やの大きな人形」
と、この作品が侯孝賢作品の中で最も好きです。ただ子供時代の懐かしさを描くのではなく、この夏休みの間、幼い兄妹が客家人家庭におけるひと夏を滋味豊かに描いた佳作です。また次々と登場する挿話は微笑を誘い、ひと昔前の日本にも似た自然や風景は陽光と郷愁をたたえています。

しかし楽しげな子どもたちの川遊び、木登りなどのたわいもない児童映画を観るように和やかな視線を送っていたわれわれも、白痴の娘の登場や強盗犯を目撃したりする場面から、性の仄暗さや暴力、死の存在がふと画面に現われて、思いがけない作品の深みも知ることになるのです。




固定カメラによる長回しが有効に生きており、冬冬たちともども大人の世界のありようを客観的に凝視する事になります。子役は大人に感情が伝わらないもどかしさまで表現していて抜群にうまく、いかめしいトントンのお祖父さんの演技など懐かしさでいっぱいになる映画でした。ロケは朱天文の祖父の診療所が使用されたということです。

写真は、その舞台となった診療所跡です。典型的な日本統治時代の建物で、われわれ日本人にも懐かしい建物でした。今では廃院になっており、将来記念館として残すということが書かれていました。立ち入り禁止ということだったので外観だけを撮りましたが、眺めていると中からいたずらもののトントンと妹のティンティンが飛び出してくるような気がしたものです。

*映画の予告編
B00005FX27 冬冬(トントン)の夏休み
ワン・チークァン グー・ジュン ヤン・リーイン
パイオニアLDC 2000-05-26

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実はこの銅鑼にはこの映画が撮影される前の1979年に、訪れた事があったのです。友人の家が駅の近くだというので3日ほど泊まったことがあります。

その頃は道路も整備されていず、回りは田んぼばかりののどかな風景でした。私は友人のバイクを借りて一人であちこち走り回りましたが、まさにこの映画のような田園風景が広がっていました。この映画を見たときあまりにも懐かしいので今度、銅鑼(トンロー)を訪れたら絶対にこの映画の舞台を訪ねてみたいと思ったのです。

二十数年ぶりの訪問では町の様子はすっかり変わっていて、昔の面影を探すののも苦労しましたが幸いトントンのお祖父さんの診療所と駅前広場の様子は映画と変わっていませんでした。、

最後に余談になりますが、この地に滞在した時に風邪で発熱してしまい、駅前の診療所に行ったのですが(この映画の診療所ではありません)、そこの医者が大阪の大学で留学していたということで、ひとしきりその時の思い出話を聞かされお尻に注射を打たれた思い出があります。こうして台湾ではどこにでも日本大好き人間がいるのでこちらも嬉しくなってきます。06・07・04 <ページトップへ> 
B0007LXPJ0 侯孝賢傑作選DVD-BOX 80年代篇
侯孝賢
紀伊國屋書店 2005-04-23

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*映画の冒頭場面/小学校の卒業式風景/日本時代から「仰げば尊し」を歌っています。
現在は中国語になっていますが



47・ついに暴発か?

7月5日の未明、北朝鮮からのミサイル発射の報道で、日本中がびっくり仰天しました
とうとうこの日が来たということしょうか。世界中からの非難をあびることは承知のはずなのにこの愚行に出たということは、北朝鮮内部で思いがけない事態が起こっているのでしょうか。

願わくはただのポーズである事を望むのですが、計り知れない恐ろしさを秘めた国です。どんな事態になるか想像も出来ません。

その昔、わが日本も暴走する軍部を抑えきれずに、不幸な戦争に突入したように北朝鮮政府が軍部を統制できないとなれば、隣国としては座して見ていられる筈はありません。

こうして気楽に毒にも薬にもならないブログやホームページを書いたりして平和を享受している多くの日本人も今、際どいところでかろうじて平和を保っているのではないでしょうか?
まだ、長距離ミサイル発射の兆候があるということで、米軍、自衛隊も引き続き警戒していますが、独裁者の命令一つでどんな事態に立ち至るか全く予想もできません。

国連による制裁決議案の採択も中国、ロシアのうちの一国でも拒否権を発動されれば廃案になってしまいます。こういう後ろ盾があるので北朝鮮も思い切った行動にも出れたのでしょうが、もしこのような結果になれば本当に危険な国は何処かということがはっきりするでしょう。10日の午前中に国連安全保障理事会で採択されます。世界中はその結果を注視しています。

窓の外では、梅雨の穏やかな雨音を聞きながら平和というものの脆弱さをこれほど実感する事はありません。政治に敏感な若い人たちもきっと同じ思いでいることでしょう。

今はただただ最悪の事態に至らないことを願うばかりです。06・07・09<ページトップへ>

48・異常気象?

朝起きると近くの木々の間からクマせみの声が賑やかに聴こえてきます。もう梅雨が明けたのかと思うと、なんとまだ明けてはいないのですね。東北地方はまだ厚い雲に覆われていて大雨の危険がある言うじゃありませんか。

この数年、年々気温が上がり雪が少なくなりその反面、夏には集中豪雨が頻発して日本中洪水の災害に見舞われています。ニュースで見ましたがフランスでは熱波の為多くの人が亡くなっているとのことです。北極の氷山も多く溶けだして海面が徐々に上がってきているそうです。海抜の低い国はやがては海の底に沈んでしまうのでしょうか。海に囲まれた日本も徐々に国土がやせ細ってゆく恐れがありますね。

学者の研究によると、炭酸ガスの大量発生で地球全体が温室効果のため暑くなっているとのことですね。原因がわかっているのにそれを阻止できないところに、根深い問題が潜んでいるのですが、これからは真剣に地球の温暖化阻止に向かって努力しなければならない時にきている事は確かです。

快適な生活をするために、全ての道路を舗装してしまい、車で移動し、暑ければクーラーをかけ、寒ければ暖房し、お金を得る為に田畑や、森、山を売り払いマンションなどの建築物を建てて行く限り、地球の温暖化は防げるわけはありません。もし”地球に優しく”しようとするなら、戦争前の不便な生活をする覚悟でなければ到底達成できないでしょうね。それも一握りの人がしても効果は上がりません。必ず国家レベルで推進しなければ効果は出ません

最近、”ウォーム・ビズ”&”クール・ビズ”といって国会では、クーラ―の温度設定を調節して少しでも温暖化を止めようと努力していますね。これはいいことですがこれくらいのことでは地球崩壊へのカウント・ダウンを止める事は出来ないでしょう。政治家のパフォーマンスくらいで解決できるほど甘いものではありません。国会では一切冷房、暖房は止めるほどの覚悟でやってもらわないと国民は目が醒めないでしょう。国会への通勤は自転車か徒歩、または電車にしてもらい、国の代表自ら模範を示して欲しいものです。

国をあげて科学者にはいち早く、自動車のガソリンに代わる水素燃料のようなものを開発してもらい、炭酸ガスの発生を抑えなければ近い将来取り返しのつかない時が来るかもしれません。

最近の、異常気象のニュースを見ていて、私は未来の子供たち、子孫のために今を生きている大人たちが最大限の努力をする事が必要だと思うのですが・・・いかが思われますか。
因みにわたしはなるべくなら車を使わないで、クーラーも出来る限りかけないように努力しています。
06・07・28  <ページトップへ>

49・NHK朝のドラマ”純情きらり”

私は今までめったにNHKの朝のドラマを見なかったのですが、たまたま音楽家をめざす”女の子”が主人公だというのでちょっと見たのが運の尽きでした。その面白さに魅了され、最近では毎週、総集編を録画してまとめて見ています。

愛知県の岡崎市が舞台となっていて時代は昭和の10年頃から始っていました。女の子は音楽好きの亡き父親の影響でピアノが好きになりいつしか音楽家をめざし東京の音楽学校を受けるのですが失敗して一浪するところから話は始ります。

幼な馴染みの味噌屋の御曹司と一緒に東京の音楽学校に受験をしにきた第一日目から手荷物をすべて盗まれてしまい、ひょんなことから転がり込む事となった下町の安アパートが第2の舞台となるのです。このアパートは絵画や音楽、舞踏など芸術をめざす若者たちが暮らすアパートで、そこでお互いが切磋琢磨して、あるときは衝突しあるときは助け合って暮らしてゆくという設定になっています。この女の子をめぐる人々がそれぞれ将来の「夢」の実現を目指している様は、ドラマとはいえ見ているこちらも心が熱くなってきます。

このドラマの山場は多分、戦争の時代をどう乗り越えるか?というところにいくつくでしょう。今日の時点では昭和18年の東京となっているので、もうその不幸の影は忍び寄っていました。主人公の婚約者は徴兵で外地に従軍していてもう既に一年も音信がありません。主人公の姉の結婚した画家が主催する絵画展は軍部の批判を受けて中止させられ、そのうえ非国民のレッテルを貼られて全く絵が描けない状態になっています。ピアノの練習も隣組の監視がきつく思うように出来ないほどです。

こういうことは母に聞いたところ本当にあったことです。学校で教師が一言平和について講義したら次の日からは教師の座を追われたとのことでした。
ドラマだといっておおげさに誇張しているのではありません。実際にはもっとひどい状態だったと想像できます。本当にこんな恐ろしい時代がついこの間まであったのだと思うと複雑な思いです。

この後ドラマはもっともっと悲惨な場面に突入するでしょう。昭和19年から終戦まで続いた連日の空襲、食べ物の欠乏、病気の蔓延、そして敗戦、本当の苦労はこれから始るのでしょう。私はこれまでの経過を見ていて、芸術という形のないものの為に生きてゆく事の難しさと、またその困難に立ち向かってゆく精神の高潔さを感じさせてくれて毎回目頭が熱くなる思いです。

ドラマの中で人が「なぜ一銭にもならないのにそこまでして、絵を描くのか?」と尋ねる場面があるのですが、”心が命ずるままに絵を描く”と答えていました。音楽も同じですね、音楽によって人が幸せな表情をしてくれるのを見たいがために音楽を演奏すると言っていました。

このように戦争という絶望的な中にも人の心と希望を失わずに芸術を希求していった若者たちの素晴らしさは、とても感動させてくれます。このドラマがどのような結末になるかは予想できませんがぜひともハッピーエンドになって欲しいものです。

私はこのドラマを見ている、お年寄りの多くはこのような過酷な青春時代を過ごしてこられたのだと思うと、頭が下がる思いがします。二度とこんな時代が来ないようにしっかりと政治を監視しなければなりません。

最後にこのドラマのタイトル”純情きらり”の”純情こそ宝石にもまさる輝き”を持っています。たとえ身体は老いさらばえても心の純情だけは持ち続けたいものですね。
06・07・29<ページトップへ>

50・映画・戦場のピアニストを見ました

NHKの朝ドラマ「純情きらり」は軍国日本での芸術家を目指す若者たちの苦悩を描いたドラマでしたが、このポランスキー監督が実話をもとにして描いた作品は、ナチスがユダヤ人虐殺を進めてゆく中で、奇跡的に生還したピアニストの壮絶な記録でした。

1939年ポーランドのワルシャワ放送局でピアニストとして働いていたユダヤ人の主人公が、やがて侵略してきたナチスドイツによりゲットーと呼ばれるユダヤ人居住区に移送され、飢えと無差別殺戮の恐怖の中を生きていくのです。

やがて友人の世話で収容所から脱出してドイツ軍の管轄している廃墟の一角に隠れ住む映画の後半は全く息もつけない緊張の連続でした。ピアノを弾くどころか人が住んでいる気配を悟られればたちまち命を失う極限の状況の中、隠れ家に置かれたピアノの鍵盤を見ながら、空中で鍵盤を弾くそぶりをする場面は、本当に鬼気迫る迫力でした。

家族を失い、生きる希望も失いかけた彼を支えてきたのは、心の中で奏でる音楽が唯一の希望だったのでしょう。ベートーベンの月光の曲の調べに誘われて出て行ったところ、それを弾いていたドイツ軍の将校に見つかってしまいました。そして尋問されたあと、彼がピアニストだと分かり、何か曲を弾いてみろと言われて弾いた曲があまりにも見事なので、将校は彼の隠れ場所を通報しないばかりか食べ物さえ与えて匿まってくれたのです。音楽の力により彼は命拾いをしました。

私はこの映画での唯一の人間的な出会いに何となくホッとしたほどです。それほどこの映画には救いも慰めもない非情な映画だったからです。

人の心の中には悪魔もいるけれど、音楽を美しいと感じる天使もいるのだとつくづく思いました。銃声と爆撃の音、人々の叫び声などのあふれた陰鬱な映画に一筋の光明を与えてくれるショパンの調べ。これほど音楽には力があるのかと再認識させてくれた映画でした。

あまりにも悲惨な内容の映画なので、頻繁には見たくないのですが、何年に一回かは見てみたい作品ではありました。因みにこれは02年のカンヌ映画祭最優秀作品賞、受賞作品です。 06・08・03 <ページトップへ>

51・太陽系惑星、3個増か?

8月17日付けの新聞にこんな記事が出ていました。
なぜ?太陽系の惑星が3つも増えるのかというと、国際天文学会で惑星の新定義が提案された為だということです。
この定義は(1)自ら球状の形を維持できる重力がある。(2)太陽のような恒星を周回している天体であること。などの条件に当てはまるものだそうです。

もし、この定義が認められれば、今まで、学校で習って来た、水、金、地、火、木、土、天、海、冥」の9個の惑星に、火星と木星の間に「セレス」。冥王星の先に「カロン」「第10惑星、2003UB313」が加わる事となるかも知れません。
近年の望遠鏡などの観測技術が進んできたため、過去発見できなかった、新しい天体がどんどん発見され、この他にまだあと12天体も候補の惑星があるということです。


惑星の動きは古代から、神話や思想、農業、占星術などに大きな影響を与えてきたので、これらの新発見は科学にとどまらず文化や歴史にも大きな影響を与えるかもしれません。

卑近な例ですが、最近テレビで大人気の細木数子さんの「六星占術」では生年月日から水星人、木星人、土星人などと分類して、因果の法則を説いていますが、これらはこれからは違ってくるのでしょうか?
これによると私は「天王星人」ということで、誰にでも迎合できる博愛主義者ということになっています。

この法則では自分の性格とは全くあっていないなあと、かねがね思ってきましたが、やはり今まで知らない惑星があったので占いどおりいかなかったのですね。いまさらながらですが合点が行きました。
そして、まだ12も新惑星が発見されると、これら占いは全く意味をなさなくなりますね。

まあ、冷静に考えて星が人生を左右するなんて、あるはずはありませんが・・・・・。


それにしても、どんどん新しい天体が発見されるということは、人類の知らない事実が数限りなくあるということですね。近い将来、生命体が生息している地球のような惑星が発見されるかも知れません。人類のような生物が住んでいる惑星が発見されるのでしょうか?

たとえ空想であっても地球が宇宙での唯一の孤独な存在ではないということを考えるだけで楽しい気分になりますね。
私はこの度の記事を読んで、そんなことをふと思いました。 
                      06・08・19<ページトップへ>

52・さようなら冥王星!

8月25日のニュースによるとプラハの国際天文学連合の総会で天文学者たちの賛成多数で、冥王星が惑星から除外されました。太陽を周回する軌道が他の惑星とは違い大きく楕円を描いている事と、天体の大きさが月よりも小さいということが大きな理由でした。
(写真は冥王星とカロン)

ついこの間、ニュースで太陽系惑星に新しい惑星が3つも増えるかも?知れないという、衝撃的なニュースがあったばかりなのに、今日は一転して、冥王星が惑星から降格して「矮(わい)惑星」と決定されました。

先日来、騒がれていた「セレス、カロン」などの新しい天体も小さすぎるという理由で、惑星とは定義されない事に決したのです。

この結果「水、金、地、火、木、土、天、海」の8惑星となりました。
私はこのニュースに接して、ちょっとがっかりしました。「どってんかいめい」という覚えやすい言葉が何となく尻切れとんぼのような気がするからです。でも、これにより冥王星がなくなるわけではなく、今までどうり太陽の周りを回っているのですが、何となく家族がひとり減ったようで寂しいですね・・・。

76年間も惑星として知られてきたし、私たちも学校で惑星の名前を暗誦するくらい親しんできたのになくなるとなると寂しいものです。冥界の王を名乗る、幻想的なニックネームは薄暗い、惑星を思い浮かべ、想像たくましく夜空を眺めたのも懐かしいものです。(あまりにも小さくて、また遠すぎるので見えるわけはありませんでしたね。)
  
冥王星は1930年に天文学者トンボー博士が発見して以来、アメリカは強行に惑星だと主張していたのですがこのたびついに降格してしまいました。アメリカ人として、はじめての発見だったので、国を挙げての入れ込みようは相当なもので、ディズニーのミッキーマウスの相棒の犬に「プルート(冥王星)」と命名したほどでした。

今回、冥王星と同じくらいの大きさの、「セレス、カロン」などを惑星に組み入れて冥王星の惑星としての地位を温存しようとしたのが、裏目に出たようです。かねてから反対意見の多かった、冥王星を外す意見に弾みがついてとうとう可決されてしまったからです。

太陽系には数限りなく小惑星があるので、これらまで惑星としていたら収拾がつかなくなったことでしょうね。なんとか8つの惑星で決まってくれてよかったと思いました。

今回の事で、日頃星空を見ることがなかったのに、なぜか夜空を見上げる事が多くなりました。
この広大な宇宙の事を思うと、今生きている世界のちっぽけな事に思い至ります。小さな悩みにくよくよせずに大らかに生きてゆこうと思わせてくれますね。

ところでホルスト作曲の「組曲惑星」は発見される前だったので、冥王星は含まれていません。ほんとうに発見される前に作曲していたのでよかったと思いました。
06・08・25 <ページトップへ>

53・パソコンの引越し

長年使ってきた、ウインドウズMeが容量が少なすぎて、たびたび故障するのでやっと新しいパソコンを買いました。

性能は飛躍的に向上したのに、値段は以前の半額ほどです。そしてうれしいことにモニターは薄型の液晶で机の上が広々使えすっきりしました。

でも、パソコンはテレビやステレオみたいにスイッチを入れたらすぐ使えるわけではなく、DSL接続や、データーの入れ替え、周辺機器のインストールなど厄介なことばかりですね。

以前はやり方を憶えていたのですが、一度設定してしまったらもう忘れていて、思い出せず悪戦苦闘の連続でした。

当初、誰の世話にもならずに、ひとりで出来るだろうと思っていましたが、結局は、3回もサポートの電話で専門家のお世話になってしまいました。
ところがこのサポート電話もなかなか相手につながらず、何十分も待ちぼうけの有様です。

世の中、私のように設定できない人が多いのだろうと実感した次第です。

パソコンの切り替えは一週間前から始めていて、前のパソコンのデータをコピーしたりして準備に時間がかかりました。この作業はまるで、家の引越しのようですね。

体力は使わないのですが、普段使わない頭を使うので、くたくたになってしまいました。

今日はやっと”パソコンという家”の整理がついたので、こうしてHPを書く気になったのです。性能がよくなり、ストレスのない快適なパソコンでまた、気楽なクラシック音楽に関する記事を書いてゆきます。 <ページトップへ>


54・大変!モーツァルトの故国の名前が変わる!?

皆さん知っていましたか?オーストリアが国名を変えたことを。

昨日テレビで見てびっくりしました。理由はオーストラリアと混同されて色んな方面に支障が出たからだと言うことです。

以下はオーストリア大使館からのお知らせです・・・・

「残念ながら、日本ではヨーロッパに位置するオーストリアと南半球のオーストラリアが混同され続けております。
この問題に対し、大使館では過去の文献などを参照し検討を行った結果、Osterreichの日本語表音表記を 「オーストリー」 と変更する旨、ご連絡差し上げます。
暫くの間はオーストリアとの併記が行われますが、徐々に「オーストリー」の名前は日本の皆様の間に浸透し、定着していくことと存じます。
   皆様のご理解とご協力をお願い申し上げます。
                                           2006年 10月 東京 」

                        
と言うことです。

モーツァルトやシューベルトなどの多くの音楽家の故国の名前が変わると聞いてびっくりしましたが、
「オーストリー」と聞いて・・・「なんだあ〜」と言う気持ちです。

昔から「オーストリー」と呼んでいたので全く新鮮感はありませんね。
どうせ変えるなら音楽の国らしく「ムジークラント」くらいにして欲しかったですね。(すみません勝手なことを言いまして)      <ページトップへ>
モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲全集
モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲全集 ムター(アンネ=ゾフィー) ガルリツキー(ボリス) バシュメット(ユーリ)

おすすめ平均
stars美しく震えるような音色
stars芳醇にして緻密
starsいろいろな楽しみ方が出来る名盤です
stars愛らしくも美しいモーツァルト
stars真っ直ぐに遊んでます

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55・なぜ少ない?大阪の振り込めサギ被害

ヤフー記事に〜”なぜ少ない、大阪の振り込めサギの被害。東京の10分の1”(産経新聞)と言うのを見ました。
なぜなのでしょうか?・・・・・・これは多分に、大阪の”オバハン・パワー”が関係していると思います。

厚かましい、おせっかい、ルールを守らない、値段でも何でもすぐに値切る。などの大阪のオバハンの気質が振り込めサギには通用しないのだと思います。
サギ師が「オレ!オレ!」と言っても「おれって言う名前の人はおりまへん!あんた誰?名前を言いなさい!」ときっと聞くはずです。
ましてや、電話一本で数万円のお金を振り込む人は絶対いないはずです。もし大阪でだまされた人はきっと他府県から嫁いで来た人でしょう。

大阪人はほかの事はともかく、お金に関しては異常なくらいシビアーですから、騙されるはずはありません。大阪人の私が言うのですから本当です。
とかく、ルール無視の厚かましさはどこでも”ひんしゅく”をかう大阪人気質ですが、マイナスイメージばかりではありません。その裏にはプラスのイメージもあるのです。
厚かましさは社交性と愛嬌、ルール無視は合理的精神、けちは経済観念、などの反対軸をもち、格好悪さは本音で生きる自由さ、などのプラスイメージもあります。大阪では”かしこそう、カッコいい”よりは「おもろい人」と言われることが最大のほめ言葉になります。子供の頃から、クラス中の笑いの中心になることが一番の目的なのです。

クラス委員の条件は「おもろい奴」です。面白く頭がよくカッコいいとなれば、もう鬼に金棒ですね。

ところで、こういう気質の「オバハン」にサギ師が電話しても時間の無駄でしょうね。子供の頃から商売人の駆け引きの経験をしてきた大阪人は相手のうそと駆け引きには敏感で、決して騙されません。また、本音で生きているのでイヤなものは「イヤ!」とはっきり意思表示します。
こういう理由で、全国でもっとも被害が少ないのでしょう。
皆様も、こんな大阪のオバハンを見習って極悪非道なサギ師どもを撃退しようではありませんか!
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56・06年第19回サラリーマン川柳

日本語の詩的表現は世界でもまれに見る、簡潔な言葉で表わせることが出来ます。俳句、川柳などがそうです。五七七のたった17文字で、ひとつの世界を表現できるのは驚異的です。

侘び、さびの幽玄の世界を表現した俳句と違って、現在生活している世界の事柄を痛快に批判したり、または自虐的にとりあげて、ほのぼのとした笑いがにじみでる”川柳”は読んでいても楽しいですね。侘び、さび、などとは縁のない下世話な庶民の生活がにじみ出て、これほど可笑しいものもありません。

毎年2月に発表される「第1生命サラリーマン川柳・コンクール」は本にまでなって大評判です。昨年(2006年)の19回川柳のベストテンは下記のとおりです。
ちょっと息抜きに見て笑ってやってください。
  

  1位「昼食は 妻がセレブで 俺セルフ」
  2位「年金は 要らない人が制度決め」
  3位「ウォームビズ ふところ常に クールビズ」
  4位「二歳だろ トロ ウニ選ぶな 玉子食え」
  5位「妻の口 マナーモードに 切りかえたい」
  6位「片付けろ!言ってた上司が 片付いた」
  7位「痩せるツボ 脂肪が邪魔して 探せない」
  8位「ダイエット 食費以上に 金かけて」
  9位「買っていい? 聞く時すでに 買ってある」
 10位「散髪代 俺は千円 犬一万」 

サラリーマンの悲哀がにじみ出た、ちょっと自虐的な川柳が多いのですが、奥様を立てて夫が耐え忍ぶ姿がほほえましいですね。

今年の第20回の入賞作は2月の中旬にHPで発表されるそうです。今年もまた大いに笑わせて欲しいものです。
「第一生命・平成サラリーマン川柳」のホームページはこちらです。        
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